【福島・沖縄からの通信】

星英雄:戻りたくても戻れない現実のなかで飯舘村の人びとに決断の時期が迫ってくる〈飯舘村レポート③〉

 東京電力福島第1原発の放射能汚染水漏れが大問題になっている。一方、福島の原発被害者の動向は、多くの国民の視野には入ってきにくくされている。半年振りの飯舘村の現状を伝えたい。

悔しくてたまらない

 アジア、ヨーロッパ、アメリカからの日本留学生たちが松川第1仮設住宅を訪れた。渥美国際交流財団関口グローバル研究会の「第2回スタディツアー」の一行だ。「飯舘村のことを知って、感じて、考えたい」という趣旨である。10月18日午後のことだった。

 留学生たちは木幡一郎自治会長ら仮設住宅で避難生活を送っている飯舘村民と懇談した。木幡会長は東京電力福島第1原発事故から2年7カ月が過ぎたにもかかわらず、除染もすすまず、帰村の見通しもない、苦難の仮設住宅暮らしを語った。

松川第1仮設住宅の集会所で懇談する留学生たちと飯舘村の人々

松川第1仮設住宅の集会所で懇談する留学生たちと飯舘村の人々

 留学生の質問にこたえる中で、佐野ハツノさんが、原発事故で村を追われた苦しい胸中を打ち明けた。佐野さんには農家の経営を任せた息子がいる。原発事故で離農を強いられ、やっとの思いで仕事を探した。しかし農家の主だった息子の新しい仕事はただの「使い走り」。1年半で仕事をやめてしまった。「俺は落ちるだけ落ちた」と息子は嘆き、嫁さんもうつ病になった──。

 「こんな苦労を政治家はわからない。放射能で避難させられて、月10万円(慰謝料)もらって、潤っただろうと見られたら、悔しくてたまらない」と佐野さんは声を震わせた。飯舘村民に共通する思いでもある。

リメーク品を手にとって見る留学生たち。後ろは佐野ハツノさん

リメーク品を手にとって見る留学生たち。後ろは佐野ハツノさん

 佐野さんは避難所生活をおくる女性たちと、全国から送られてきた支援の古い着物をリメークしている。リメーク品は、いまでは1流デパートに出品し、羽田空港第2ターミナルには常時置かれるまでになった。いつの日か、飯舘村に戻る日がくることを願って活動をつづけている。

 福島原発事故は世界に影響を与えた。彼ら彼女ら留学生たちは、飯舘村・福島・原発についてどんな感想を抱いたことだろうか。

子どもたちの将来は

 福島市内の公務員住宅に避難している若い母親たち5人に話をきいた。年齢幅は33歳から36歳まで。0歳児から小学校6年生までの子どもたちがいる。子育て真っ盛りの世代だ。

 「村民が気兼ねしないで利用できる保育所がほしい」。盛り上がったのは保育所のことだった。川俣町の(村営)保育所に連れて行くのには1時間かかる。福島の保育所に入るのは順番待ち、周囲の福島市民の目が気にもなるし・・・。

 「住宅ローンが30年以上残っていて家を捨てられないけれど、子どもをつれて村に戻るわけにはいかない」。母親の1人がいった。他の母親たちもこういった。「事故後に生まれた子も、この住宅地を走り回るまでに元気に成長した。そんな子どもたちからすべてを奪うような選択(帰村)はできません」「成人するまでは親の責任です。放射線量が1ミリシーベルト(年間)に下がらないと村には戻れない」

 母親世代にとって、大事なものは「子どもの健康と学校・教育のこと」という。ただし、父母や祖父母のことを考えないわけではない。「高齢者だけを村に戻して、若いものだけで生活していいのだろうか」と、悩みはつきない。

 村に対する注文がつづく。「もっと早く復興住宅ができたらよかったけど、これからではちょっと・・・」

 「村のアンケートは飯舘に戻りたいかどうかばかりをきいて、いまの生活で困っていることなどはきかない」。

 「村外で暮らす私たちの意見にもっと耳を傾けてほしい」。

 村外での長い避難生活のなかで、それぞれのいまの生活をどう成り立たせるか、必死の思いが伝わってくる。この思いを村としてどう受け止めているのか。

 母親の1人が静かにいった。「村長は子どもたちの将来のことをどれくらい考えてくれているのでしょうか」。

「状況」は現在進行形だ

 「首相があんな発言したり、トップセールスで原発を海外に売り込んだり、いいわけないさ」。1年前の取材で知り合った村民の1人が、安倍晋三首相批判を口にした。労働者が公共事業やオリンピック関連工事に流れ除染作業などの遅れにつながるという不安もある。声高にはいわないものの、避難生活者の安倍政権にたいする批判と不満は大きい。

 続発する大量の高濃度汚染水の垂れ流し事故。法定基準は30ベクレル(1リットル当たり)なのに、8000万ベクレルというとてつもない高濃度の汚染水が検出された。3・11原発事故で溶け落ちた核燃料は放射能を出し続けている。そのときから放射能汚染水はもれつづけていると専門家はみている。今も作業員は被曝させられながら働いている。

 「状況はコントロールされている」などという安倍首相の発言を、現実が否定する。「収束」ではなく、未曾有の原発事故は依然として進行形なのだ。

草野地区のかつての中心街

飯舘村草野地区のかつての中心街

 いま東京電力と安倍政権の責任があらためて問われている。この問題のはじまりは、民主党、自民党、公明党が事故後に成立させた原子力損害賠償支援機構法にあるといっていい。東京電力を破綻させずに存続させる救済目的の法律だ。だから、東電は破たんを免れるためにコスト削減を最優先して対応してきた。それが、放射能汚染水漏れを拡大し、生活再建にはほど遠い損害賠償につながっている。一定の除染をし一定の賠償を支払って住民が元の自治体に戻ってしまえば、あとは政府・東電のあずかり知らぬこと、個人の責任だという論理である。加害者である政府・東電一体の路線だ。

 東電の対処能力がないことが知られるようになり、あらためて東電の破たん処理が浮上してきた。破たん処理で、大銀行などに責任をとらせれば、国民負担を3兆円減らせるという試算もある。破たん処理してこそ、汚染水、除染、賠償などにまともに取り組めるようになると、東京・永田町でも話題になっている。

 安倍政権の原発政策は、東電の存続、原発再稼動、原発輸出、そして原発新増設の機会をうかがうものだ。原発事故は収束せず、14万人余がいまも故郷を追われている過酷な現実とは決して相容れない路線である。

政府の除染計画が破たんして

 台風26号が通過した直後の10月17日、飯舘村須萱地区では住民たちが除染作業に精を出していた。政府(環境省)ではなく、委託された村がおこなっている除染作業だという。

 

環境省の「立入禁止」の看板の向こうに汚染土などが野積みにされている(須萱地区)

環境省の「立入禁止」の看板の向こうに汚染土などが野積みにされている(須萱地区)

 作業員は白っぽい作業着に全員ヘルメット、マスクをして、枝葉を集めている。ショベルカーが土をすくっている。住宅の周りでも除染作業をすすめている。汚染土などを黒いビニール袋に詰めている。

 ゼネコンが作業員をつれてくるのではなく、村民が丁寧に除染作業に取り組めば、より放射線量を下げることができるというのが、村の考えだ。023

 しかし、それでも除染は容易ではない。須萱地区の除染作業関係者はこういう。「国も村もはじめてのことだから、どれだけ(線量が)下がるかわからない。あっちからもくるから」と目の前の山林を指差した。このあたりは飯舘村の中で最も放射線量の低い地域だが、それでも毎時0.43マイクロシーベルト=年間3.766ミリシーベルトを計測した。035

 飯舘村は国の直轄除染区域にされている。環境省は先日、除染の完了見通しを当初予定の来年3月からさらに3年ほど先延ばしした。政府の除染計画の破たんが誰の目にもはっきりした。しかしこのことで驚く村民はほとんどいない。はじめから多くの村民は「除染はあてにならない」とみているからだ。

 実のところ、いまの安倍自民党政権もかつての民主党政権も、除染をしてどこまで放射線量を下げるか、目標値をさだめていない。一度除染作業をするだけで、放射線量が下がるかどうかは関係ない。除染行程の見直しも、線量が下がらないからではなく、対象にした地域(面積)が予定通りこなせなかったというだけのことに過ぎない。

 帰還困難区域の長泥地区と同じくらい高濃度の放射能に汚染された蕨平地区に、国の焼却炉建設を受入れたのも、飯舘村の最近のできごとだ。東電福島第1原発事故による汚染廃棄物を燃やす施設。飯舘村だけでなく、周辺6市町の汚染物も処理することになっている。

 村民は受入れに必ずしも賛成ではない。放射性物質の二次汚染を引き起こす可能性もぬぐえない。汚染物は1日240トン、100台の運搬車が必要になる。操業時間を1日8時間とすれば、5分に1台、2トンの汚染物を載せた車が走る。道路や橋が耐えられるのか、排気ガス、騒音なども懸念材料だ。桜田義孝・文部科学副大臣の「(焼却灰は)原発事故で人の住めなくなった福島に置けばいい」という発言もある。

 木幡自治会長は、「焼却炉を引き受けるより、徹底した除染で村の人たちを喜ばせるのが先ではないか」と、批判的だ。菅野典雄村長が推進する飯舘村の復興政策について「村長は独断だ」「村長は国と同じ方向を向いている」との批判も強い。

 9月の村議会議員選挙には、そんな民意が反映した。ばらばらの避難生活がつづいているにもかかわらず、73%の投票率。村長派といわれる議員3人が立候補せず引退し、現職の佐藤八郎議員(共産党)が得票を伸ばし2位で当選した、ことなどが選挙結果の特徴だったという。「村長にものがいえない議会では困るんだ」と村民の1人が結果を分析してくれた。

村は村民の意向に沿っているのか

 松川第1仮設住宅の入り口に、村の直売所「なごみ」がある。避難生活に欠かせない野菜や果物、日用品などが並ぶ。買い物に立ち寄った村民たちの出会いの場にもなっている。089 (2)

 避難生活者の中の新しい動きが話題になっている。村外に土地や建物を求める村民が目に付くようになったという。子どもたちは友だちをつくり、新しい学校生活を始めている。少なくない親たちは、子どもたちが新年度や新学期を迎えるたびに、転校や移住などを考えてしまうという。

 「2年で帰村する」見通しが崩れたいま、村としては来年度中に全宅地の除染を終え、放射線量を年間5ミリシーベルトまで下げて、まずは高齢者の帰村を目指すという。だが、それも実現する見通しがあってのことではない。

 戻りたくても戻れない、ゴールがみえない現実の中で1人1人が「覚悟と決断」を迫られる時期に入ってきたといえる。2年7カ月の歳月は長く重い。

 「原発事故直後の対応で、国にも村にも不信感がぬぐえない」とKさん(男)がいった。かつて一体となって「までいな村」づくりに取り組んできた村長と多くの村民の間に、原発事故が溝をつくったという。

 福島第1原発から30キロメートル離れた飯舘村で、福島第1原発事故直後の2011年3月15日、毎時44.7 マイクロシーベルトという驚くべき高濃度汚染の実態が記録された。避難が完了したのは7月のことだった。

 その間の政府や村の対応に、村民は根強い反発を抱いている。当時の枝野幸男官房長官は、「ただちに影響はない」などと安全神話を振り撒いた。飯舘村でも「村や御用学者たちは、マスクをして手を洗えば大丈夫とか、健康に害はなく村で生活できるとかいって、避難を遅らせた」とKさんは当時を振り返る。しなくてもいい被曝をさせられてしまったという記憶は消せない。

 飯舘村の20地区は被曝線量によって3つに分けられている。年間20ミリシーベルト以下の避難指示解除準備区域が4地区、年間20ミリシーベルト超~50ミリ・シーベルト以下の居住制限区域が15地区、年間50ミリシーベルト超の帰還困難区域が1地区。高濃度の放射能に汚染された飯舘村の圧倒的多数の村民が求める安全の基準は年間1ミリシーベルト以下だ。しかし、村は年間5ミリシーベルト、国は年間20ミリシーベルトを基準に帰村させることをめざしている。この違いは大きい。

 「避難するときにみんなの心がばらばらになってしまった。村として1つの方向性でまとまるには、このわだかまりを解消しないとできない」とIさん(男)。「国は地方自治体の1つや2つの意向を無視できるかもしれないが、飯舘のような小さな村が村民の意向にそわずに村の方向性をきめるのは無理だと思う」と話す。

 飯舘村は東電と歴代政府による人災、福島第1原発事故の被害者だ。人間らしい、1人1人の生活再建と村の復興のために、原発事故がもたらした「分断と対立」を飯舘村はどう克服していくのだろうか。

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