「日米合意」を振りかざし、米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設を強要する安倍・自民党政権に、沖縄の怒りが沸騰している。菅義偉官房長官は「県外移設はあり得ない」と問答無用の態度、石破茂自民党幹事長は離党勧告をちらつかせて恫喝し、県外移設を公約して当選した自民党国会議員と自民党沖縄県連を、辺野古移設容認に転じさせた。しかし、「オール沖縄」の合意を「力」でねじふせたことに対する沖縄の反発はきわめて強い。沖縄の民意は、公約をひるがえした国会議員にも、自民党沖縄県連にも、県民の7割が「評価しない」としている(沖縄タイムス4日付け)。
力ずくで辺野古に新基地をおしつけるやり方に、沖縄の人々は琉球処分、沖縄戦を思い起こすという。明治政府が琉球王国を武力で威圧し、琉球を沖縄県として日本に併合した琉球処分。日本の敗戦間際に、「集団自決」を強いられるなど一般住民10万人以上の死者を出した沖縄戦は、本土防衛の捨て石作戦だった。そして戦後、沖縄は文字通り本土の「捨て石」として米軍支配下におかれた。
市民のデモをテロと同一視する石破氏らが、辺野古移設に反対する名護市民・沖縄県民を「力」で撃破しようとしたのは、沖縄の人々の「心」に火をつけた。沖縄の歴史は、強権に対する抵抗の歴史でもある。稲嶺進名護市長も「権力に対する抵抗はウチナーンチュの誇りだ」と語る(当サイト掲載〈稲嶺進:すべては子どもたちの未来のために、すべては未来の名護市のために ウチナーンチュの誇りが新しいまちづくりを進める〉 参照)。名護市民の1人は「中央の自民党は”沖縄の心”を読み誤った。いや、理解しようとさえしていない」と憤る。
沖縄県民VS安倍・自民党政権という構図の中で、名護市長選挙は闘われている。
稲嶺進市長は「すべては子どもたちの未来のために すべては未来の名護市のために」の理念にもとづいて、基地に頼らないまちづくりをすすめる決意を表明した。米軍普天間飛行場の辺野古移設に反対し、教育・子育て支援や福祉と医療の充実、地域経済の活性化、雇用創出などの公約実現を約束している。すでに保育料は認可も認可外も2人目半額、3人目無料を実現した。認可外の助成は沖縄県内の市としてははじめてだ。中学卒業まで通院も入院も無料にしたのも県内の市としてはじめてのこと。学校給食も3人目から無料にした。総事業費73億円をかけて校舎の耐震化をすすめている。これも県内唯一の取り組みだ。
辺野古への移設に反対すれば、再編交付金がなくなり、予算も仕事も減るなどの「稲嶺攻撃」に対し、市長と市職員の努力で市の予算ははじめて350億円を超える結果を出した。稲嶺市長には裏づけとなる実績は数多い。
一方、辺野古への移設を容認する勢力から2人が市長選への出馬を表明した。しかし、容認勢力の支持は2つに割れず、ほとんどすべてが末松文信元副市長に流れるとみられている。
その末松氏は今月6日、自ら上京して安倍首相や菅官房長官に「北部振興策」という名のカネを懇願した。市民に依拠し市民とともに闘う稲嶺市長と、権力とカネにすがる末松氏の違いが際立っている。
しかし、政府・自民党が総がかりの選挙を甘く見ることはできない。沖縄の選挙にくわしい那覇市在住のジャーナリストはこう注意を喚起する。「辺野古移設に反対する市民が多いからといって、それだけで選挙の帰趨がきまるわけではない。稲嶺不況といったネガティブキャンペーンを軽視するべきではない」。
末松氏は選挙公約で、市役所の市街地移転など土建業者を意識した政策を重点的に打ち出した。しかしそれは、名護の普通の業者の受注に結びつくわけではない。
末松氏はかつて辺野古移設を容認した3人の市長の下で、企画部長や副市長を務めた。陰の市長ともいわれ、土建業界を牛耳る特定の業者との癒着が指摘されてきた。島袋前市長時代、島袋氏と末松氏、中泊東開発会長の3人は「市長が3人いる」といわれたほどで、市政を私物化したことでも知られる。10月には、荻堂盛秀北部地域振興協議会会長らとともに、辺野古移設容認の副知事担ぎ出しに動いたことも明るみに出た。
これまで島袋前市長と組んできた名護経済界は今回、有力候補と見込んで末松氏の支持に回った。普天間基地の辺野古への移設と、かつての伏魔殿市政への逆戻りは1体の関係にある。
稲嶺市長は「公正・公平・透明で説明責任が果たせる行政」をめざしてきた。透明性のある入札制度を導入し、一部の特権的企業ではなく、地元の下請け業者を優先するようにした。「市政の主役は市民」の姿勢で、市民の声に耳を傾け、市民の目線でまちづくりをすすめてきたのだ。
新基地建設を拒否し、公正・公平な市政をつづけるか、それとも新基地を受入れて古い市政に逆戻りするのか。名護と沖縄の将来は、名護市民の選択にかかっている。