米軍普天間基地の代替施設として新基地を辺野古に建設する計画が浮上して17年。辺野古の人々を中心に、自民党政権にたいしても民主党政権にたいしても闘いつづけ、いまだ新基地を許していない。そんな辺野古の闘いを担ってきた3人の物語を紹介したい。最初は、辺野古の住民でつくる「命を守る会」の代表、西川征夫さん(69)。(文責・星英雄)
私の父はウミンチュー(漁民)で漁業に携わってきた。私は水産高校を出て、辺野古でダイビングクラブもつくった。海の恩恵でここまできたと思っています。辺野古の海の破壊は絶対に受け入れることはできない。
辺野古の上空はいまでも毎日米軍ヘリが飛んでいる。オスプレイがくれば騒音はよりひどくなり、落ちない保証もない。つねに犠牲は辺野古の住民だ。首相官邸にも米国大使館にもいって訴えたけど、私たちの声は届かなかった。
「命を守る会」をつくったのは、1997年1月27日。辺野古の公民館での共産党の懇談会に参加して、基地をつくらせるととんでもないことになるとわかったからです。私自身、自民党支持者だったから、これに参加していないと「命を守る会」をつくっていなかったと思う。
そこに集まった人たちは拳を突き上げたこともないし、運動に関する何の経験もない。それで、政府のやることに対峙できるのか、不安でした。地区労に借りてテントをたてたのが活動の始まりで、半年後に全国からのカンパでプレハブの小屋を建てた。「命を守る会」は住民運動に徹してきたつもりです。
98年2月に新基地容認派の市長が誕生して、辺野古は条件闘争に転じた。そこからが地獄みたいでした。部落(辺野古)の活動はみんな一緒にやってきたのに、新基地建設問題で親兄弟が別々になり、部落が2つに割れてしまった。同期生の会も反対、賛成で分かれた。これは苦しく、つらいことでした。それがずっと続いている。
住民は1500人ほどですが、辺野古はすごく保守的な地域です。かつてはキャンプシュワブができて貧乏な辺野古が活気を帯びた。ベトナム戦争のころです。米兵相手に猫も杓子も水商売といった感じでした。いまも、バブルが発生することへの期待がある。基地に提供した土地の賃貸料(軍用地料)で生活している人も少なくない。だから政府は、辺野古の新基地容認勢力に期待するのです。
ことし3月、46年ぶりに辺野古の区長選があり、新区長が選ばれた。辺野古も少し変わりつつあるように思います。「命を守る会」は辺野古行政の民主化を掲げてきました。非民主的やり方をあらためて区民のための行政に変えよう。
辺野古区には総会はなく、18人で構成する「行政委員会」が最高意思決定機関になっている。実態は有力者の「独裁」です。2007年には「沖合い案」に対する反対決議取り下げを決めたんです。区民の議論もないのに、行政委員会だけで決定するとは独断もいいところです。年間1億6000万円の予算が「力」になっている。年1回の大会で発言するのは主に私ですね。
新基地を受け入れればカネになると考えている人たちがいることは確かです。1人1億5000万円もの個人補償をもらえるという、とんでもないうわさが流された。辺野古のボスは市街地の経済界にそそのかされて、できないことをできるかのようにみせかけて住民をそそのかす。
しかし推進派がこれだけやっても前に進まない。政府にだまされたとわかってきたんです。新基地推進勢力があらゆる手をつかって17年たった。いまだに基地を建設する見通しがないから、建設業関係の人も実現しそうにないとわかってきた。「命を守る会」としては基地問題をもっと学習し、区民に「NO」をアピールしていく。これがベストのやり方だと思います。
ただし、今度の市長選に勝たないとまた復活する。稲嶺市長が落選するとたいへんなことになる。できることはやって、市長選に勝ちたい。