【福島・沖縄からの通信】

島袋文子:安倍首相よ、沖縄の基地を全部、東京のど真ん中にもって行け〈沖縄レポート⑫〉

 島袋文子さん(83)は辺野古の「おじぃ、おばぁ」の1人だ。新基地建設を阻止するために、嘉手納の防衛局と交渉し、東京で訴え、長野県や北海道で講演もするなど、走り回ってきた。この17年間の行動を支えたのは、母や弟といっしょに死線をさまよった、凄絶な沖縄戦の体験だ。(文責:星英雄)

 自分たち沖縄人は沖縄戦のとき、日本軍の盾にされて命を失った。私も1度は死んだも同然の人間です。またもや政府が新しい基地とオスプレイを押し付けるのかと思うと、ワジワジーしてくる。

手製の八重山まりと島袋文子さん

手製の八重山まりと島袋文子さん

 沖縄戦は15歳のとき。東風平(こちんだ)村(現在の八重瀬町)から糸満へ、目が不自由な母と小さい弟をつれて逃げ回った。死ぬのはこわくなかった。小さいときから、天皇陛下は神様だ、天皇のために命を捨ててこいと教えられてきたから。

 米軍の攻撃で東風平村に、雨のように機銃掃射、艦砲射撃、爆弾が降ってきた。3番目の兄が私を探してあちこちの壕のぞいて歩いたので、日本軍は兄にスパイの疑いをかけた。いとこの家にいった兄を連れてこないと親戚を全部殺すといわれた。壕の外に出て小さな子どもの口を押さえている母親もいた。そうしないと日本兵に殺される。結局、軍に壕から追い出されたのです。

 米軍の飛行機がきたら水の中に入って隠れ、いったらまた出て歩く。死人の影に伏せて、なんとか逃れてきました。

 背中に子どもを背負い、赤ちゃんの首が飛ぶのもわからずに逃げ回った女性もいた。血が噴き出し、赤ちゃんの首がなくなってることに気づいても、泣いてるひまもない。赤ちゃんを着物につつんで畑のあぜ道に置いて、また逃げた。

 防空壕に逃げようとしていたおっさんの首が飛んだのは本当に怖かった。目の前には、大人も子どもも、死体がごろごろしている。私たちは親や兄弟姉妹の死体をまたいで逃げ回ったんです。

 避難した先の壕には4つの家族が入っていた。そこに米軍が迫ってきて、壕の中に手榴弾を投げ込んだ。そして火炎放射器で、私たちを火責めにした。私の髪の毛は全部焼け、左半身に大やけどをした。弟は母が抱いていて無傷だった。弟に、なにがあっても母から離れるなといいきかせました。

 外に出たらアメリカ兵が立っている。日本軍は逃げてしまってもういなかった。米軍の捕虜になって、水陸両用車にのせられてそのまま船で北谷に行きました。船から降りてトラックで中城に行き、1晩すごして翌日ゴヤの病院に行った。2、3日後、宜野座の米軍野戦病院に連れて行かれた。

 途中で離れ離れになった母とその野戦病院で再会した。そこでは、直る見込みのないものは毒殺されると聞かされていたので、ガーゼを帯にして15歳の私が母親をおんぶして逃げた。母の背中のやけどの傷口には、ウジがわいていた。逃げて、どうにか生き延びることができました。

 沖縄の人間がどれほど苦しい思いをして生きてきたか。長野県の子どもたちに沖縄戦の話をして、「天皇、国のために死ねるか」ときくと、子どもたちは泣いて首を振りました。

久志岳での米軍廃弾処理と爆破訓練による衝撃音・衝撃波はすさまじい。かつては辺野古の家の壁にひび割れを発生させ、いまも家々を激しく振動させる

久志岳での米軍廃弾処理と爆破訓練による衝撃音・衝撃波はすさまじい。かつては辺野古の家の壁にひび割れを発生させ、いまも家々を激しく振動させる

 沖縄に基地は要らない。沖縄はゆいまーる(結いまーる=相互扶助の精神)で、貧しいけれど助け合って生きてきたのです。

 安倍首相にいいたい。あの血が混じった泥水を飲めるか。沖縄に基地を押し付けるのではなく、沖縄の基地を全部、東京のど真ん中にもって行け。

 日本軍が沖縄の住民を助けなかったように、アメリカも日本なんか助けてくれないと思う。

 本土の人にもいいたいですよ。米軍基地は日本の安全保障のためというなら、日本全体で分け合うのが当たり前じゃないですか。なんで沖縄なのか。日本人も沖縄人も切れば赤い血が出る。沖縄の人の命と本土の人の命とどこが違うのですか。沖縄の人間の命を軽くみてほしくない。

 私は沖縄戦で、死んだ人間が浸かっている泥水を飲んで生き延びてきた。人の血を飲んで生きてきたのと同じです。生きている限り、戦争と基地に反対しつづけます。本土のみなさん、基地をなくすために沖縄に力を貸してください。 力を合わせてください。

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