沖縄・那覇市から「不屈館だより」第2号が届いた。この3月で、開館1周年を迎えたという。不屈館は「沖縄の祖国復帰と平和な社会の実現を目指して命がけで闘った、瀬長亀次郎(元衆議院議員)が残した膨大な資料を中心に、沖縄の民衆の戦いを後世に伝えようと設立された資料館」と、同館のサイトにある。本土から多くの人が沖縄を訪れるが、不屈館にもぜひ足を運んでほしいと思う。
沖縄からの「不屈館だより」に、「その日以来、『不屈館』の1枚の写真が注目を集めている」と、内村千尋館長がメッセージを寄せている。1枚の写真とは、琉球政府創立式典で他のすべての立法院議員(いまの県議会議員)が米軍への忠誠を誓う中でただ1人、瀬長亀次郎議員が宣誓を拒否して座っている写真のことだ。サンフランシスコ講和条約発効を直後に控えた1952年4月1日、国宝だった首里城の廃墟の跡に建てられた琉球大学がその現場だった。
そのときの様子は、瀬長亀次郎著『民族の悲劇 沖縄県民の抵抗』(新日本出版社) に、こう記されている。「他の立法院議員が、直立不動の姿勢で宣誓するなかで、人民党の瀬長亀次郎議員だけが、ハンチングを頭にのっけたまま、そっぽを向いて坐りこんでいたのである。瀬長議員としては、『ヘーグ陸戦条約によれば、占領軍は、被占領住民を強制して、宣誓させてはならないことになっている。住民に宣誓するとでもいうのならともかく、アメリカ軍に・・・宣誓などしないよ』というわけだった」
本土復帰の1972年まで存在した琉球政府は、サンフランシスコ講和条約にあわせて取り繕われたにすぎなかった。実態は米国民政府の絶対的権力の下に置かれた「米軍占領支配の代行機関」だ。星条旗と将官旗が翻る式典に、「比嘉主席のほか、琉球列島米国民政府を守る琉球の御歴々、全琉球の市町村長、各種団体の長」らが参集させられ、米軍に忠誠を誓わせられたことが物語っている。こんな場で、瀬長以外の誰が宣誓を拒否できただろうか。
瀬長の宣誓拒否写真と対比された「その日」の写真は、昨年11月26日の琉球新報の1面に載った。安倍晋三首相や石破茂自民党幹事長の恫喝に屈し、普天間米軍基地の県外移設から辺野古新基地建設容認に豹変した沖縄選出の5人の国会議員。その惨めな姿が石破幹事長とともに写っている。
内村館長は、安倍政権の辺野古移設強行に対し、沖縄の現実を知らないアメリカ国民、広く国際世論に働きかけることを呼びかけて、メッセージをこう結んでいる。「沖縄の戦後史から学ぶことは数多くあり、先輩たちの闘いに学び、そのことに誇りを持ち、不屈に闘おう」。
わたしが不屈館を訪れたのは、昨年11月、那覇空港から東京に戻る直前のわずかな時間だった。館内には、米軍への宣誓拒否後も闘いつづけた瀬長亀次郎と沖縄の歴史が息づいている。復帰前には沖縄から本土への渡航に必要とされたパスポート(身分証明書)などの貴重な資料も展示されている。
「小異を捨てず 大同導く」という沖縄タイムスの切り抜きが目にとまった。沖縄社会大衆党の委員長を務めた仲本安一(なかもと・あいち)さんが、「保守も革新もない。奴隷扱いされ、人間の尊厳を否定されたウチナーンチュ全体の代弁者だった」と瀬長亀次郎を回想している。今でも耳に残る瀬長の言葉があるという。「アーイチ君、小異は捨てちゃいかん。人それぞれに主張がある。小異を残して、大同につくんだ」。いまにいたるオール沖縄の精神が、この言葉にあらわれていると思った。人民党と社会大衆党という党派の違いや選挙のときの争いも超えて、瀬長亀次郎を評価する仲本さんの誠実な人柄にも胸を打たれた。