飯舘村の人々は3・11東京電力福島第1原発事故による被曝後、4度目の春を迎えた。福島第1原発から北西に40キロメートル離れた飯舘村に高濃度の放射能が降り注いでから、丸3年が過ぎた。しかし、いまだ「春は名のみ」だ。除染は進まず、家族は分断され、故郷には戻れない。被害者の痛みを感じない無責任な東京電力と政府によって、村民は筆舌に尽くせない苦難の生活を強いられている。
「もう3年だもんな。この先何年だかわかんねぇし・・・ここで終わりたくねぇ」
松川第1仮設住宅で暮らす三輪善一(83)さん、栄子(81)さん夫婦は、静かに話しはじめた。飯舘村の中心部、関沢行政区で4世代いっしょに暮らしていたとき、東電福島第1原発事故が発生した。南相馬市から「孫の兄夫婦と友人らが逃げてきて家に泊まった」。「ローソクの明かりで夜をすごしたけど、寒かったなぁ」と振り返る。飯舘村の自分たちが被曝していたことも知らず、政府と村から知らされもせず。三輪さん夫婦が避難して仮設住宅に住むようになったのは5月末だったという。
3年過ぎたいまも、明るい希望は何もない。「賠償はどうなる、いつになったら村に帰れるか、不安だらけだ」。「息子の嫁はうつ病で入院。孫もひ孫もみんなばらばらになった」。
長い仮設住宅暮らしは誰もが「ストレスにやられる」と、善一さんはいう。「いままで元気だったのが(仮設住宅から)病院にいって帰ってこないのが何人もいる。死んだんだ。ストレスだべな」
善一さんは「なーんにもない、これだけだ」といって室内を見せてくれた。玄関の戸を開けると、靴の脱ぎ場にこまるほどの小さいマット。仕切りもなく、それがそのまま台所の一部になっている。台所には小さな流し台とガスコンロが2つ。冷蔵庫と洗濯機、電気釜などを置く簡易棚。これだけで台所はもう一杯だ。ちいさなトイレと脱衣場のない風呂場が台所の端にある。あとは、テーブル1つ、テレビ1つがやっとの茶の間と寝室。夫婦2人の生活の場は、全てを合わせて、たった30平方メートルしかない。
豊かな自然に恵まれた飯舘村からバイパス道路の横の空き地につくった窮屈な仮設住宅へ。野山を散策することもない。朝起きてから寝るまで、食事も会話も体の動かし方も、「生活は何から何まで変わってしまった。原発がなければこんな生活をすることはなかったのに」
松川第1仮設住宅の集会所前のベンチに腰をかけて話している3人の女性にきいた。3人とも80歳を超え、子や孫と離れてここで1人暮らしという。
「いま1年、いま1年と我慢してきたが(村に)戻れるのはいつのことか。仮設は縮こまっているから、ストレスがたまるばかりだ」
「家がないと、あきらめもつく。どうせ村に戻れないんだから、買い上げてくれないかな」
「田も畑もつくって働いてきたが、骨折り損のくたびれもうけになってしまった」
時折、飯舘村の我が家を確かめに行く。ネズミや害虫から家を守るため「ネズミ捕りを仕掛け、室内には樟脳を振りまいてくる」。たとえ一時でも狭い仮設住宅から開放されることがうれしいと口をそろえた。「飯舘の家に入ると伸び伸びする」という。「春はフキ、ワラビ、ゼンマイ、タランポ(タラの芽)。タランポの天ぷらはうめえ。いつ死ぬかわかんねぇもんな、食いてぇもん食いてぇ」
3人の話が行き着いた先は、まるで見通しが立たなくて、これからどうしたらよいかわからない、ということだった。「困った、困った」と、つぶやくように繰り返した。
仮設住宅集会所のとなりにあるサポートセンターは、デイサービスのほか、居住者なら誰でも利用できるトレーニング・リハビリ器具などがあり、交流の場ともなっている。住民に接してきた職員からみて、住民の1番の変化は「認知機能の変化」だという。長い仮設住宅暮らしによる「病」にほかならない。別の職員は、こうもらす。「話す言葉から、居住者のあきらめを感じるようになった」「うつや引きこもりで、外に出てこない人もいる。高齢者の1人暮らしは精神的にまいってしまう。これから先のことがわからないから、不安なのです」
仮設住宅は当初、2年間の限定使用で建てられた。安普請だから、住居としての問題が多発している。夏は暑く、冬は寒い。畳の劣化。開け閉めに苦労する玄関戸。結露と壁や天井のシミ、カビの発生。隣の音や話し声が聞こえる薄い壁。そして何よりも狭い。日本国憲法 第25条が保障する「健康で文化的な最低限度の生活」さえ営むことができない状態におかれている。1言でいえば、非人間的生活を強いられているのだ。それを、1年また1年と延ばしてきた。東電や政府は原発事故の責任をどう果たそうというのか。
「仮設暮らしは4年目に入ったが、村にもこれぞ、という方針はない」。松川第1仮設住宅の木幡一郎自治会長はいう。仮設住宅に住む高齢者の現実は、村長や役場が考える以上に厳しいと感じている。いま木幡会長は「村内に高齢者向けの集合住宅を建てる必要がある」と考える。
その理由はこうだ。
─村長が帰村宣言をしても、若い世代が村に戻らないことははっきりしている。
─高齢者は本当は村に戻りたいが、年寄りだけで戻ってもしかたがない。それよりは、戻りたくない子ども夫婦や孫たちと福島市内で同居したい。そのためには金銭的負担もする。
さらに深刻な問題がある。「それもできない高齢者は、村長の帰村宣言に合わせて村に戻るしかない。しかし隣の家まで1キロメートルも離れている飯舘村に戻っても、そのままでは孤独感が強まるだけだ。孤立しては、村に戻っても暮らしてゆけない」「だから集合住宅が必要だ」と木幡会長は話す。
東電の原発事故で村を追われ、家族を分断され、仮設住宅暮らしを強いられた村民たちが、放射能に汚染された村に家族と切り離されて孤独な帰村を余儀なくされるとは、なんということか。
飯舘村の避難者は現在6690人に上る。仮設住宅には松川第1をはじめ1150人が住む。仮設以外でも、生活困難はほとんど変わらない。復興住宅の建設も遅々として進まない。「東京オリンピックに作業員をもっていかれ、飯舘村の除染も住宅建設も作業員が不足している」と、飯舘村のあちこちで聞かされた。
安倍政権は、原発事故は「コントロールされている」と世界を欺いて東京オリンピックを招致し、原発再稼動、原発輸出に突き進む。東京電力は自社の生き残りのために、原発事故被害を小さくする。
無責任な東電・政府に対する批判が、松川第1仮設住宅に鬱積している。「オリンピックにばかり力を入れて、東電も政府も、原発事故は対岸の火事のつもりか」「東電も政府も、いま少し避難者の身になって考えてもらいたい」。
1人1人の生活の再建なくして、飯舘村の復興はない。福島の復興なくして、東京オリンピックもないはずだ。被曝3年後の飯舘村の現実をだれもが直視してほしい。