【連帯・社会像】

大沼博良:教育現場から~安倍流「教育改革」「教育再生」でどうなる学校と子どもたち

 3月29日、日比谷野外音楽堂で全国の教職員が集まり、安倍「教育再生」ストップを掲げて集会を開いた。北は北海道から南は沖縄まで約3000名が全国から集まってきた。韓国にある教職員の組合から、韓国においても同じような攻撃がされているとの連帯メッセージが届いていた。マレーシアの教職員組合からも連帯のメッセージが届き、日本だけでなく他国の教育現場の人たちも安倍流「教育改革」「教育再生」を注視しているようだ。

 安倍流「教育改革」「教育再生」はマスコミでも取り上げられ、「道徳教育の教科化」・「教科書検定と歴史教育の見直し」・「脱6・3・3・4制」・「教育委員会改革」・「学力」重視など具体的にいわれているが、その根っこがどこにあるのか。

 安倍第1次内閣のときから「戦後レジームからの脱却」を叫び、その突破口として教育を考えているのだろう。「教育改革」「教育再生」と称しているが、「戦後レジームからの脱却」の目標を達成するためのものでしかない。つまり、「戦後レジームからの脱却」の根っこに「教育基本法改正」があった。もちろん彼にとって、憲法改正こそが「戦後レジームからの脱却」と思うのだが、10年20年という長い先のことを見据えて教育を変えようとしている。今の中学生、高校生が大人になる頃その成果が出るように。

 「教育基本法改正」で「愛国心」等の問題点を指摘されている。もちろんそれらのことは大変なことではあるが、「教育基本法改正」にはもっと根本的な思惑があったと考える。

 教育基本法改正で変えられたものに「前文」と「教育の目的」がある。改正前の教育基本法の前文には「・・日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、・・この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。」とある。同じく第1条、教育の目的の中では、「教育は、人格の完成をめざし・・・自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。」とある。この部分がすっかりなくなっている。これを削ることで、安倍は何を期待していたのだろうか。

 憲法を制定した人たちは、その精神を本当に実現するのは大人ではないと考えただろう。次の時代を担う子どもたちがその精神に則った社会を作り上げることができる。その期待の気持ちを込めて教育基本法が制定された。

 戦争を経験したまともな多くの大人たちは、なぜ国民が無批判に国家の言いなりになったのか考えざるを得ない。だからこそ、そうならない人を育てない限り繰り返される。そのために憲法を確定し、その憲法の本当の実現を、時代を担う子どもたちに託したのだと思う。9条だけではない、憲法丸ごとを託した。

 しかし、改正によって子どもたちが丸ごと国家の言いなりになるような人間に育てられようとしている。そこには批判的精神はないし、創造していこうとする精神と意欲さえもそぎ落とされようとしている。まさしく、自主的精神のない人間を育て上げようとしている。その具体的なものとして、「道徳教育の教科化」・「教科書検定と歴史教育の見直し」などがある。

 安倍流「教育改革」「教育再生」には100%反対である。

 今の教育現場は、少しずつとんでもないことになってきている。公立小学校の現場にいて、痛切に感じる。教育勅語が表舞台に出てこようとしている。

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