【福島・沖縄からの通信】

星英雄:原発は化け物だ、骨にならないと村に戻れない〈飯舘村レポート⑤〉

 「長泥を出た者が、骨になって戻ってきている」──。飯舘村長泥行政区の鴫原良友区長(63)はいった。高濃度の放射能に汚染された長泥地区は、村で唯一の「帰還困難区域」に指定され、バリケード封鎖が続いている。故郷を追われた住民は村外に住み、住民の多くが「長泥はなくなる」との思いを強くする。しかし、望郷の思いが募っても、死んで骨になることでしか故郷に戻れない。この現実こそが、東京電力福島第1原発事故の悲惨さを物語る。

 人が住めない無人の長泥を、普段は福島市内の借り上げ住宅に暮らす鴫原さんに案内してもらった。3月27日、まだ雪が残る長泥は寂寥とした風景が広がっていた。バリケードの検問所を経て村内に入ると、野積みされた黒いビニールシートの袋の「山」が目に入る。福島第1原発事故から1年後の2012年、農水省のモデル除染がつくりだした汚染土が詰まっている。黒い袋の異様な存在感は、長泥が人の住めない土地であることを象徴しているようだ。モデル除染が、「長泥に戻りたい」という住民に希望をもたらすことはなかった。042

 鴫原さんに、長泥の自宅を見せてもらった。玄関を入ってすぐの茶の間の中心にはちゃぶ台が往時のままに据えられている。「ここがおれ、こっちが親父の場所」と鴫原さんは、ちゃぶ台を囲むかつての家族の居場所を指差した。壁には原発事故当時のままのカレンダーと3人の孫娘の写真。いまは中学生と高校生に成長したという。047 (2)

 家の外に出て「ほらイノシシが土を掘った跡だ」と鴫原さん。イノシシやサルが出没するので、家の周りにはカメラを設置してある。045

 長泥十字路に着いた。荒れ放題の農地の道沿いに、「積算線量」を測定する計器を入れたカギつきの小さな箱があった。当初は文部省、いまは原子力規制委員会が放射線量と累積線量を測定している。横のガラスケースには、あの原発事故の直後の、2011年3月の記録が残っていた。057

 記録紙をみると、3月16日、7.5マイクロシーベルト/時。同17日、95.1マイクロシーベルト/時・・・同31日、21.5マイクロシーベルト/時。  16日から31日までのわずか16日間で、積算線量は8.345ミリシーベルトの高濃度を記録している。政府の除染の長期目標が年間1ミリシーベルトであることを考えると、桁外れの放射線を浴びたことになる。けれども、安全を軽視する政府によって、長泥の人々は高濃度の放射能のなかで数ヶ月も生活することを余儀なくされた。被曝させられたのだ。(1000マイクロシーベルト=1ミリシーベルト)056

 被曝した自分の孫や若い世代の将来が気にかかると鴫原さんはいう。「こんなくれぇの放射能は大丈夫だって国はいってるけど、孫たちは子どもを産めるのか。被曝手帳が必要だと思う」。原発事故で被曝したことで、ガンやその他の健康障害の心配をしなければならない。健康管理をし、将来、東電や国に医療費や賠償の請求が必要になるかもしれないという思いだ。

 「家族も地域もばらばらになった。3年も離れて暮らせば、血も薄くなる」と鴫原さんは嘆く。長泥がいつの日に、かつての長泥を取り戻せるのか。鴫原さんは「100年、200年かかる」。多くの長泥住民は「長泥はなくなる」と思っている。それだけに鴫原さんは、長泥の人々が長い年月をかけて培ってきた長泥の伝統を子孫に伝え残したいと願っている。

鴫原・長泥区長(福島市内の借り上げ住宅で)

鴫原・長泥区長(福島市内の借り上げ住宅で)

 長泥の鴫原宅の茶の間の隣の部屋には、神や仏がまつられていた。「バリケードの中で神仏をまつるのは、感謝の気持ちだ。神にも仏にも親にも」。「米や野菜の実り、花や風景のおかげで、生きている。命をいただいて生きていることに感謝する」。「大事なのは長泥の人のつながりなんだ。ここの文化というかまつりごとを、子どもたちに引き継ぎたい」。そんな思いで昨年11月、季節はずれの盆踊り大会を開いた。村の外に散り散りに暮らしている住民270人の半数が参加した。

 住民も長泥への愛着が強い。長泥のほとんどの人は兼業農家だ。土への愛着は強い。都会の人たちには理解しにくいかもしれないが、カネで売買できるものではない。住民にとって長泥はかけがえのない土地なのだ。長泥住民の1人はいう。「原発事故で土地を取られたも同然だが、先祖代々の土地を売りはしない」。

 鴫原さんが発行する区報「まげねえどう!ながどろ」は最新の第7号から、住民の「自分史」の聞き取りを掲載しはじめた。第1回は、松川第2仮設住宅に暮らす鴫原文夫(75)・昌子(72)夫妻。文夫さんは、飯曽小学校長泥分校の思い出を語った。近くに蚕小屋があったこと、学校の暖房は火鉢、「夏は草履と冬は木の靴底に上部を藁で編んだ長靴」・・・。昌子さんは家で布団を干しているとき、アメリカのB29が飛んできて、布団をかぶったことを覚えているという。

 長泥は貧しかった。村の子どもは学校から帰ると「家の手伝いで縄もじりをし、一束縄をなってから遊びに行くことが多かった」。「昔はみんな蚕をやっていた」、「みんな一年中炭焼きをしていた」ことなど、2人が生まれ育ったころを回想している。自分史の共通題は「長泥はどこから来てどこへ行くのか」。かけがえのない故郷を失うことへの切ない思いがしみる。124

 飯舘村・福島にとって、原発事故後の最も大きな出来事の1つは、安倍・自民党政権の誕生だ。この4月、新たなエネルギー基本計画を閣議決定し、原発再稼動の姿勢を鮮明にした。国内48基の原発すべてが停止していても、電力供給になんの支障もないというのに。昨年12月には、「原子力災害からの福島復興加速に向けて」を閣議決定。茂木経済産業大臣は「避難指示の解除と帰還を具体化していきたい」と説明している。早期帰還者には賠償を追加し、慰謝料は避難指示解除後1年で打ち切ることもはっきりさせた。帰還困難区域の住民には慰謝料の追加700万円の一括支払いもする。要は、帰村と村外定着で賠償を打ち切り、東京電力の負担を小さくして存続させる。原発再稼動の環境整備のための「復興加速」だ。

 福島第一原発はいまも高濃度の放射性物質の放出を続け、事故原因さえ解明されていない。事故処理も除染作業も、被曝労働に担われている。そして飯舘村・福島の被害者は置き去り状態だ。そのことを顧みることもなく、東京電力福島第1原発事故の幕引きがねらいだから、「東電も国も信用できない」と飯舘村のだれもがいう。

 飯舘村は重大な局面を迎えつつある。菅野村長は、年内に本格除染を終了し、来年秋頃から特別村内宿泊期間とし、再来年(2016年)3月頃に、帰村宣言をしたい意向を示している。しかし、前提の除染は進んでいない。今年度から除染をはじめる14の行政区は宅地だけを除染対称にし、道路や農地などは後回しにした。山林やため池は除染の対象外だ。宅地を除染して帰村を急ぐものとみられている。ただし、長泥の除染の開始時期について環境省福島環境再生事務所は、「方法をふくめて検討中」という。長泥に住民が戻れる見通しは政府にさえない。

 ことし1月の調査結果では、村に戻りたいと考えている若い世代はきわめて少ない。20代では3.2%、30代では4.0%しかいない。20代の66.7%、30代の61.3%が村に戻らないと決めている。選択肢のない高齢者が、次世代、次々世代のいない村に戻ったとして、それが「復興」といえるのだろうか。村を離れざるを得ない若い世代も、戻りたい高齢者も、故郷を失った現実があるだけだ。

 家族を奪われ、故郷を奪われたことが、どれほどの痛苦か。安倍政権は原発事故被害者に思いを寄せることはしない。鴫原さんは淡々といった。「原発は化け物だ。人間の手に負えない。総理大臣が再稼動するというなら、おれたちに分かる言葉で説明してもらいたい」

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