事件は、沖縄が本土に復帰した後の1978年12月29日、日本国憲法の下の名護市で起きた。それは、米軍の「機銃乱射事件」としていまに語り継がれている。米軍基地と米軍の存在が、どれほど市民を恐怖に陥れるか、市民の命と生活を脅かすか・・・
「名護市許田における米軍の機銃乱射事件に抗議する市民大会事務局」が著した『機銃乱射事件』などに基づいて、事件を見て行きたい。
1978年12月29日、名護市許田区で事件は発生した。午前11:00、許田正光氏(67才、農業)宅に機銃弾数十発が乱射された。瓦屋根4ケ所を貫通した。1時間半後の12:35、野原朝徳氏( 59才、農業)が畑から帰宅途中、機銃弾が肩をかすめ前方に着弾した。
同じころ、金城幸円氏(74才、農業)所有のキビ畑に機銃弾が着弾し発火、30坪を全焼した。午後3:00には許田氏と市の職員数名とが現場調査をし、機銃弾を発見した。午後4:00、名護市長も現場を調査、機銃弾を発見した。もはや、米軍が撃ち込んだ弾丸に間違いはなかった。
重機関銃から発射された弾丸は口径12.7ミリ、長さ58ミリ。人体を裂くような凄まじい破壊力を持っている。地元紙は「民家めがけて機関銃乱射」「”狙い撃ち”に青ざめる」「庭にも弾痕30発」「一歩間違えれば葬式」と事件を報じた。許田正光宅の屋根瓦を貫通した機銃弾は、2週間後に押し入れの中で発見された。布団が焦げていて、危うく火災になるところだったという。まさに、人命を失い、家屋が焼き払われる大惨事を引き起こすところだったのだ。
しかし、米軍はまるで責任を感じていないようだった。名護市から事件を伝えられた米軍は、午後10:45、少佐ら8名の米軍関係者が名護市役所にきて、事件の説明をきいた。その上で米軍関係者は市長・市職員・許田区民らと現池調査をし、機銃弾を発見した。しかしそれだけだった。謝罪やコメントをすることもなく、米軍関係者は引き上げて行った。
翌30日、区民は「許田区民抗議集会」を開いた。市長は米軍に対する抗議声明を発表した。市長も市議会も、軍事演習の即時中止と米軍基地の即時撤去を強く要求した。しかし、米軍はそれらを無視し続けた。
市民の米軍に対する怒りが広がった。明けて1979年1月3日、名護市は在沖米国総領事、在沖米海兵隊司令部に抗議した。市長、市議会議長、北部地区労議長が市民大会開催に動き出した。
事件は水陸両用大隊の実弾射撃訓練が引き起こしたものだった。キャンプ・シュワブの演習場から、2800メートル離れた標的の久志岳を越えて、5400メートルもの距離がある許田に撃ち込まれた。まるで許田が標的であるかのように撃ち込まれたのだ。
ようやく米軍が謝罪の意を示したのは、市民大会の前日、18日になってからだ。合衆国海兵隊准将K.L.ロビンソンの名で、「名護市民にご迷惑とご心配をおかけした」とする文面の「謝罪」をした。それは同時に「事故調査は終りました」と宣言していた。調査報告書は、「訓練実施に関する運用規程は民間地域を含め、全ての関係者の安全を確保するのに適切なものであった」とし、単に運用上のミスだったとしてすませた。
これが、名護市民に受け入れられるはずがなかった。翌19日、市民は抗議の市民大会を開き、「大会決議」を採択した。それにはこうある。「昨年4月名護市数久田で発生した105ミリ砲弾落下事件、さらに今回の機銃乱射事件は、米軍が軍事演習を続ける限り、いつでもどこでも起こり得るものであり、もはやわれわれはこれ以上、われわれの生命を脅かす米軍の傍若無人な行為を断じて許すことはできない」「ここに、われわれは戦争を前提とした米軍の無謀な軍事演習の即時中止とすべての軍事基地の全面撤去を、米国および日本政府に強<要求する」
当時30代で抗議活動に参加した崎浜一郎・許田区長は「機銃乱射事件は部落(許田区)の記念誌『手水の惠み 許田字誌』に載せてあるから、永久に残る」と話す。
事件の翌年、数久田区の養豚用水タンクを、米軍の重機関銃弾が直撃した。名護市民は、米兵による女性絞殺、戦車道建設による原生林破壊や水源地、河川や漁場の汚染、ヘリ墜落、山林火事、等々。米軍演習の被害を受けつづけている。米軍基地がある限り、市民は常に命を危険にさらすことになる。普天間基地が危険だから、代替として辺野古に新基地を建設するという日米両政府の横暴を許すわけにはいかない。