【連帯・社会像】

卯城公啓:1つの地球、多様な世界

 ピースボートの地球一周第83回クルーズは、2014年3月13日に横浜を出港し、6月24日に横浜に帰る104日間の旅でした。宇宙の中ではちっぽけな星にすぎないけれど、一人の人間にとっては一生かかっても全てを見知るすべのない地球。ひと回りする船旅は、この惑星の広大さを体感するとともに、訪れる土地・国々、出会う人々を通じて、世界の多様さを知る機会でもありました。

 行く先々に、戦争・紛争や環境破壊、貧困や歴史の負の遺産を乗り越えてよりよい社会をめざそうとする人たちがいました。航海も終わりに近づいて気づくのでした。微力ながら私自身もそんな地球人の一員である、という自覚をあらためて深める旅だったのだ、と。

 船の中で折々に書いた「ピースボート便り」のうち、世界と日本の行く末についてとくに考えさせられた寄港地の見聞記を、いくつか紹介します。

  「昭南島」に〝日本〟を訪ねて

 第2次大戦中、占領した日本が「昭南島」と名づけたシンガポール。入港にあたり、どうしても訪れたい場所は「血債の塔」しか思い浮かばなかった。かつて日本軍に虐殺された市民の犠牲を記念する塔である。

 しかし、「『昭南島』の歴史に学ぶ」ツアーは、先に巡る所があった。まずは、日本と戦った連合国側がつくったチャンギー博物館。捕虜となった連合国軍兵士の苦難を伝えている。次に、博物館にほど近いチャンギー海岸に置かれた記念碑である。こじんまりして黒っぽい碑は、ほとんど目立たない。金色の文字で、ここで中華系の66人が日本軍に虐殺されたと記している。クスの木のような大木が茂る緑豊かな海辺。南国の海で水しぶきを上げてはしゃぐ子どもたち。酷い出来事があったとは信じられない平和な風景である。いまチャンギー国際空港に変わっている地所では、1000人もの人が殺されたという。

 町の西部へ向かう。日本人墓地を訪れた。広い庭園墓地に、東南アジアで命を落とした日本人が葬られている。クチナシに似た白い落花が散らばる辺りに、縦30㌢ほどの長細い石柱が点々と立つ。故郷へ帰りたくて、とうとう帰れなかった「からゆきさん」たちの墓だ。かと思えば、BC級戦犯として処刑された日本軍兵士の慰霊碑、戦犯の追及を逃れた寺内大将や快傑ハリマオのモデルとなった谷豊の墓、近海を航行中の客船で病死した作家、二葉亭四迷の墓碑まである。さながら、日本・東南アジアの近現代史を物語る庭だ。

 「血債の塔」(写真)は、市の中心部にそびえ立っていた。76㍍。想像していたよりはるかに高い。熱帯の日差しをあびて、どこまでも白い。日本軍に虐殺された人は、日本政府の見解で数千人、現地の見方で約5万人。手を合わせ悼んでも、平常心ではいられない。平和憲法の国の一員というのが、せめてもの救いだ。塔

  塔のそばの交差点に面して、19世紀にシンガポール領有を宣言したイギリス東インド会社のトーマス・ラッフルズにちなむ「ラッフルズ・ホテル」が建つ。海側を望むと、三つの超高層ビルの屋上を船形の建造物でつなぐ「マリーナベイ・サンズ」が誇らかに天をつく。植民地の19世紀、戦争の20世紀、超近代都市の21世紀。まるで、歴史の交差点からの眺めのような気がした(3月24日記)。

  灯火管制

 スリランカのコロンボ港を出た船は、アラビア半島をめざして進む。海賊警戒海域に入ってきた。今夜から、船長命令で日没から日の出までの間オープンデッキへの立ち入りは禁止である。乗客を人質に取らせないためだ。違反した者には、船長が下船を命じるという。同じ時間、屋外の照明はすべて消され、船室も光を漏らさないようカーテンを締め切る。灯火管制は1週間続く。

 先日、船内講座で主に国際政治について論じている高橋和夫さん(放送大学教授)が、〝なぜ戦争は続くのか〟を主題に語った。彼は、経済学者シュンペーターの説によりながら、2点解説した。①戦争を生業とする階級ができれば、彼らは戦争を必要とする②強力な軍隊のある国では、為政者が戦争を選択しやすい―。①は、いまだに退治できないインド洋の海賊にもあてはまりそうだ。彼らの多くは、海賊を生業にするしか仕事も収入もないのだから。高橋さんは「〝戦士階級〟をつくらないこと、そして彼らを社会に復帰させることが大事」と説いたが、やはり海賊対策も同様だと思われる。

 と偉そうに書いているものの、本当に海賊に襲われたら私などはあわてふためくのだろう。どうか、襲撃は勘弁してほしい。

 コロンボでは、博物館や仏教寺院を訪れ、目抜き通りをぶらぶらした。1960年代から70年代初めごろ、世界初の女性首相バンダラナイケ率いる民主連合政府がアジアの希望の一つだったスリランカ。しかしその後、25年ともいわれる長い内戦で、国は荒れ人々は苦しんだ。5年前に内戦が終わったばかりである。

イギリス植民地時代の立派な建物を望む街の歩道を歩いていた時だった。「あっ」と思った瞬間、間近からみつめる物乞いの老女と目が合っていた。大きく見開いた両の目。それまで、彼女の存在にまったく気づかなかったのだ。埃や煤で汚れ、塗料のはげた店も目立つ、くすんだ街の風景に溶け込むように座っていたからだろう。痩せた老女の瞳が、旅の重い記憶として心に残る。(3月29日)

  テントのないキャンプ

 「キャンプというとテント住まいを想像されるでしょうが、そうではありません」。ヨルダンのパレスチナ難民キャンプを訪れる前、何度か同じ説明を受けた。

 首都アンマンから35㌔ほど南、タルビエ・キャンプには約9000人が暮らしているという。コンクリート造りの家々が狭く埃っぽい路地から路地へ軒を接する、町の一角。そこがキャンプなのだ。ある1軒に家の中をみせていただいた。表戸をくぐったところに土間のような空間、その周りに台所、2つの寝室、トイレ。屋根が傷んでぼろぼろだが、修理するお金がない。7人家族。主人は無念でならない。「パレスチナでは大きな家に住んで、暮らしもよかったのに…」。

 この一家は5年前に逃れてきたそうだが、タルビエ・キャンプの始まりは1968年だ。イスラエルが電撃奇襲でアラブ側を破った、第3次中東戦争の1年後である。テント住まいでない日常は、それなりの安心を得られる半面、半世紀近く故郷へ帰れないまま異郷の仮住まいに居ついてしまった現実をも物語る。

 ドイツの市民団体の援助でできた女性支援センターや、ユニセフが運営する障がい者リハビリセンターなどを訪問し、交流した。いずれも、人々が貧困や失業から抜け出せるよう自立を促す施設である。女性支援センターの事業は、美容師を育てたり手芸を教えたり、パソコン教室を開いたり、盛りだくさんだ。映画人をめざす教室からは、アメリカで記録映画を上映した監督も巣立っている。文化事業は女性向けに限らないようで、ヨルダンで人気のラッパー2人組もセンターで活躍の機会をつかんだという。

キャンプの子どもたち

キャンプの子どもたち

 女性支援センターで少年少女が、頭にかぶるカフィーヤの着け方をピースボートの私たちに教えてくれた。一行がキャンプ内を歩くと、子どもたちがはしゃぎながら次々とついてくる。下校する制服姿の女生徒の一団とすれ違う。彼ら彼女らは、故郷を知らない世代なのだ。みんな、お邪魔したね。シュクラム!(アラブ語の「ありがとう」)(4月12日)

  ロープウエーに誰が乗る

  バスがベネズエラの首都カラカスに入り、車窓からロープウエーがみえた(写真)。辺りのようすから察すると、観光客を運ぶ路線とは思えない。やはり、それは山の上の住民の生活手段だった。ロープウェイ

   カラカスは盆地の町である。街を囲む山や丘の斜面のてっぺんまで、粗末な家が埋め尽くす。昨年亡くなったチャベス大統領の政権が、そこに住む貧しい人々のためにロープウエーを架けた。運賃は無料。対して反チャベス派が「無料はおかしい」と異を唱え、論争が起こった。家々は青や赤、色とりどりだ。せめて見栄えを良くしようと、政府の方針でペンキを塗っているという。しかし、大雨が降れば流され、人が死ぬ。あちこちに、被害にあった家の残骸が放置されている。

 チャベス政権も、あとを継いだマドゥーロ現政権も、世界有数の産油国の石油収入を生かして医療や教育、住宅の改善に力を入れているそうだ。無料の公共住宅も建てているのだが、なかなか追いつかない。

 ベネズエラの町で山の家とともによく目立つのは、チャベス氏の写真や肖像画である。公共機関や目抜き通りに掲げられていたり、道端の壁に描かれたグラフィティであったり、実にさまざまだ。真ん中にチェ・ゲバラ、左にカストロ、右にチャベス、3人の写真を組み合わせた横断幕もあった。もっとも多いのは、19世紀ラテン・アメリカの対スペイン独立闘争を率いた英雄シモン・ボリーバルとチャベス氏を並べた図柄である。

 チャベス氏は、中南米・カリブ海諸国共同体(CELAC)の設立に力をつくして逝った。ボリーバルの〝ラテン・アメリカは一つ〟の夢を、チェ・ゲバラは武力で実現しようと試みて失敗したが、チャベス氏は平和の共同体づくりを通じて緩やかに達成しようとしたのだろうか。

 チャベス氏の霊廟を訪れた。貧しい人々の家が連なる丘の上にある。棺を置く建物の前から、大砲が中心街に砲口を向けている。毎日、チャベス氏が亡くなった時間の午後4時すぎに空砲を鳴らすという。市民に、〝チャベス大統領は国民の心の中に生きている。革命を続けよう〟とよびかける号砲である。

 眼下にひしめく庶民の家々をみながら思った。革命の成否は、後継政権がチャベス氏に寄りかからなくても国民多数の安定した支持を得られるかどうかにかかっているのだろう、と。(5月9日記)

   地球のへそ、あるいは最果て

 地平線のかなたまで草地が続く。ネコジャラシのようなイネ科の草や、黄色い花のマメ科の植物が、風にそよぎ波打つ。イースター島を訪れた日本人は、ほぼ同じ印象をもつのではないだろうか。阿蘇の草千里のようだ、と。木はまばら、小豆島と同じぐらいの広さの島全体が〝草千里〟である。米塚のような小山も少なくない。そして火山、火口湖。山は、いちばん高くても500㍍あまりだ。

 大草原の中を、モアイ像や鳥人伝説の地を訪ねてバスで行く。途中、人の住まいは、人々の居住が許されているたった1つの村にしかない。放牧牛が道路を行き来したり、馬の群れがのんびり草をはんでいたり。巨大なモアイ像は、そんな風景の一部である。8世紀ごろに始まったというモアイづくりの、現場が残っている。休火山の石切り場だ。山の斜面に数百のモアイ像が散らばる。 モアイ

        海岸へ運ぶ途中で、仰向けに放置された〝捨てられモアイ〟。首から下が土に埋もれた〝顔だけモアイ〟(写真)。切り出されないまま岩山の一部と化した〝つくりかけモアイ〟…。一つとして、大きさや姿、顔つきが同じ像はない。しかし表情は、一様に宙を仰いで黙考するふうである。もともとは付いていたはずの目が、部族間の「モアイ倒し戦争」でもがれたからだ。

 いまはチリ領のイースター島は、南米大陸から3700㌔、世界中で陸地からもっとも遠い孤島である。かつて島民は、〝ここは地球のへそ〟と考えていたという。ポリネシア語の島名も、「ラパ・ヌイ(輝く大きな場所)」。部外者の冷たい見方だが、泣いている地球の象徴という意味では〝地球のへそ〟かもしれない。18世紀以降、島に来たイギリス人やオランダ人は島民を殺し、アメリカの捕鯨船は島の女性をさらっていった。ペルーの商船は奴隷狩りにやってきて、多くの島民を殺し、連れ去った。

 部族間の食料の奪い合いや外国船のもたらした混乱から、モアイ倒し戦争が激しさを増した。島民は、モアイを部族のシンボルとみなし、その目に霊力が宿ると信じていた、と伝えられている。モアイ像を運ぶのに大量の木を使った事情もあり、島の森林は失われた。20世紀には、草も羊に食い尽くされ荒れ果てた時期があった。島の大半が、イギリス企業の羊牧場になっていたからだ。

 哲学者風のモアイ像が、現代人にこう問いかけているようにみえた。〝いまの地球は、ラパ・ヌイの悲劇をくり返しているのではないか?〟。(6月1日記)

  ゴーギャンはどこへいった

 ポール・ゴーギャンの絵「われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか」に導かれるようにしてタヒチへ来た。19世紀末から20世紀の初め、8年に渡ってタヒチに住んだゴーギャン。ピースボート仲間3人とともに、彼の足跡をたどってみようという企みだったのだが…。

 タヒチでゴーギャンにちなむ形ある物は、ゴーギャン博物館にしか残されていない。博物館は遠いうえ、いまは改装中だという。向かったのは、「われわれは…」を描いたアトリエがあったプナアウイア地区である。寄港地、フランス領ポリネシアの首府パペーテからバスに飛び乗った。音声案内のないバスである。隣の席の中年女性に、地図をみせ手振り身振りで、どこで降車ベルを押せばいいか教えてくれと頼み込む。先に降りる彼女は、それを近くにいた青年に申し送る。そんな乗客たちの温かい心遣いがうれしい。

 無事に着き、プナアウイアの海辺へ。うろうろしているうちに、海岸の墓地に入り込んだ。目の前に広がる海の、青のグラデーションの見事なこと。サンゴ礁の海に、ゴーギャンが古城にたとえた鋭峰を頂くモーレア島が浮かぶ。たしかに、ゴーギャンがみた海であり、山である。浜辺に出たが、どうやら辺りは、海岸にたつ家々のプライベートビーチらしい。構わずサンゴのかけらの散らばる浜を歩いていると、ホテルの敷地内に迷い込んでしまった。「ル・メリディアン・タヒチ」。空腹にたえられず、高級ホテルのレストランでハンバーガー昼食とあいなった。洗練された、ビーチも景色も独り占めのホテルである。

 ゴーギャンがパリから移り住んだ時、すでにタヒチは南の楽園ではなかった。島の支配者は、宗主国フランスである。ゴーギャンは、タヒチを堕落させる植民地政府に反抗した。彼は、21世紀のいまもタヒチがフランス領で、海辺を金持ちや外国のホテルが囲い込む、という光景を想像しただろうか。

 女性3人の道端からの懸命の訴えが功を奏し、ヒッチハイクでパペーテに帰った。ポール・ゴーギャン通りを歩く。商店街である。パペーテには、ジャンヌ・ダルク通りも、元フランス大統領の名前をとったド・ゴール通りもある。ゴーギャン通りも、フランスの尊大さの表れなのか。もっともゴーギャン自身、梅毒を島に持ち込み、十代半ばの島の娘に子どもを産ませるような人物で、島民の目にフランス植民者の1人と映ってもおかしくない。

  しかし、彼が「福音書に匹敵する主題」と自慢した「われわれは…」は、タヒチでこそ生み出せた絵だろう。未開の自然を背景に、右端に赤ちゃん、左端は過去を振り返る老人。その間に、生きる営みや人生の喜び悲しみを表す人物像の数々。生命の神秘を暗示するような大作は、西洋文明の虚飾をまとわないタヒチの人々の生と死に触発されて描けたはずだ。

 20世紀以降、こんどはゴーギャンの絵に触発され、物理学者は宇宙と物質の成り立ちから、生物学者は生命の起源から、人類学者はヒトの誕生から説き起こし、「われわれは…」の謎に迫った。謎解きは終わらないが、1つはっきりした。宇宙の中に奇跡のように生まれた、地球と生命のかけがえのなさである。

 ところがフランスは、ゴーギャンが「われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか」を描いたポリネシアで、核実験を繰り返した。生命の源を壊し人類の行く手を閉ざしかねない核兵器をつくるために。記念碑

 私たちがその日、朝一番に訪れたのは、パペーテの海岸にある、核廃絶を願う記念碑であった(写真)。3本の柱が立つ。右側に彫られた顔は、核武装を推し進めたド・ゴール元大統領を表す。真ん中に「真実」「正義」「権利」の文字。左は核実験に苦しむ人や魚のレリーフ。手前に核実験場の石を集め、広島・長崎の石も置かれている。核兵器をつくり、いまだ手放さない人類。われわれは何者なのか。自問しながら、私たちは未来に向かって進まなければならない。(6月4日記)

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