【特集:わたしと憲法】

星英雄:國弘正雄さんを偲ぶ

 國弘正雄さんが11月25日、84歳で亡くなりました。「同時通訳の神様」といわれ、三木武夫首相の側近・外交ブレーンを務め、また社会党参院議員としても活躍しました。私が國弘さんに取材で接するようになったのは、國弘さんが土井たか子・社会党委員長に口説かれて参議院議員となった1989年7月以降のことです。取材を通して見た國弘像は断片的ですが、「非戦・護憲」の信念を持ち続けた政治家として忘れられないお1人です。

 國弘さんが初当選した直後、私は赤旗政治部の記者として議員会館に國弘さんを訪ねた。國弘さんに興味をいだいたのは、その1年半ほど前の1987年12月、「野党政治戦線の結集を問う」というシンポジウムがきっかけだった。当時政界をにぎわせていた社会・公明・民社3党などの「政権交代可能な野党連合構想」について自民党へのすり寄りを感じ取った國弘さんは、戦前の翼賛政治の二の舞になりはしないかと、その場で警鐘を鳴らしたのだ。

 最初の取材のとき、「これまで書いた記事を見たい」といわれて少しばかり驚いた。そこで数日後にいくつかの記事のコピーを持参した。そのなかに、件のシンポジウムの記事もいれておいたことがよかったのか、以後、親しく取材させてもらうようになった。

 赤旗日曜版1993年5月9日号1面に、「三木元首相夫人も小選挙区制に反対」という記事が掲載された。三木睦子さんは、「いまは手の汚い人ほど『政治改革』を口にしています」「どう考えてみても、それ(小選挙区制)が政治改革になるとは思いません」と小選挙区制反対の思いを語っている。

 実は、舞台裏で、國弘さんに尽力いただいた。三木睦子さんが小選挙区制に反対していることを知った私が國弘さんにお願いした。三木武夫元首相没後も、國弘さんは三木家の人々とは昵懇だった。しばらくして國弘さんは、三木睦子さんに了解してもらったと知らせてくれた。三木睦子さんが後に「9条の会」呼びかけ人の1人として活躍されたことはよく知られていることだと思う。

國弘さんの歩みは「自分史」である『國弘正雄の軌跡 烈士暮年に、壯心已まず』に詳しい

國弘さんの歩みは「自分史」である『國弘正雄の軌跡 烈士暮年に、壯心已まず』に詳しい

 いつだったか、土井たか子氏がアメリカのマンスフィールド元駐日大使にあてた手紙の英訳を終えたばかりだといって、取材に応じてくれたこともあった。土井氏や村山富市氏に首相になるよう勧めたことを悔いていると聞かされたのは参院議員引退後だった。自社さ政権で、村山首相が「自衛隊合憲」「日米安保堅持」を表明したことは國弘さんの痛恨事だったのだ。

 國弘さんは知米派である。しかし、いやそれだからこそか、「平和」に反するアメリカには容赦なかった。「ライシャワーは駐日大使である間、ベトナム戦争を肯定するから、がっかりした」といい、 イラク戦争をはじめたブッシュ(子)大統領は「歴代最低の大統領」とこき下ろした。「アメリカは国の内外で暴力的だ。どうして日本人はアメリカの実相をみようとしないのか。アメリカ礼賛主義者がうようよいる」と、怒り、嘆いたこともあった。

 「私のスタンスは変わっていないのに、世の中が右に動くから、私は左だと思われるようになった」。時々、國弘さんはこんなことを語った。変わらないスタンスは非戦、護憲の信念だ。

 「物思わせる三月十日」と題する國弘さんの随筆が『軍縮問題資料』(1992年4月号)に載っている。幼少のころ、浅草かいわいに暮らしたことがある國弘さんにとって、3月10日東京大空襲には特別な思いがある。「気っぷがよく、善良で、気ばたらきのよくきく」隣の若おかみや下町の人々が「天が生み出したのではない、人のつくった業火の中を逃げまどい、煙にまかれ火に焼かれ、力つきてその最期を迎えたに違いありません」と、死者の無念の思いを共有する。

 國弘さんは堀田善衛の『方丈記私記』の一節も引く。焼跡の視察にきた昭和天皇にたいし、罹災者は地面にさっと土下座して、「われわれが至らなかった故に、ご宸襟をお悩まさせして罪万死に値いする」という趣旨のことを口にした・・・。

 「権力者の不敏や失政によっておこされた戦争」なのにと、國弘さんは違和感を禁じ得ない。若おかみらの理不尽な死に寄せる思いと、戦争の本質的な理解。國弘さんの揺るがぬ信念の原点だったと思う。

 後に加藤周一が「夕陽妄語」で、「物思わせる三月十日」をとりあげた(朝日新聞夕刊、2005年3月24日)。加藤は医師として東京大空襲の被害者・患者の救済に追われた体験を語り、こう結んでいる。

 「知識の動機は知識ではなくて、当事者としての行動が生む一種の感覚である。しかし戦争についての知識がなければ、反絨毯爆撃・反大量殺人・反戦争は、単なる感情的反発にすぎず、『この誤ちを二度とくり返さない』ための保証にはならぬだろう。堀田も、国弘氏もその関係を見事に把握していた」

 いまから10年前、2004年2月24日のことだ。「きょうは、話をしておきたいことがあるんだ」と、この日は國弘さんから話を切り出した。

 ──憲法があるにもかかわらず、イラクへの自衛隊派兵がどんどん進められていることに多くの人が危機感を持っている。今朝も、ある学者の奥さんから、そんな電話を受けた。数日前に会ったジャーナリストのHも何とかしなければと。憲法学者のKさんからも手紙をもらった。共産党、社民党、新社会党が力を合わせるべきだという考えを持つ人もかなり広くいる。ぼくも、護憲勢力は大同団結してほしいと思っている。

 國弘さんが存命なら、憲法9条をとりまく総選挙後の政治・社会状況をなんというだろうか。                               合掌

星英雄:國弘正雄さんを偲ぶ” への1件のコメント

  1. 三木睦子さんの赤旗の記事に協力してくれていたとは知りませんでした。護憲勢力についてはいまはその3党だけでは国会内では小さすぎ、民主党の一部までどう引き込むかが問題ですが、これがむずかしい。案外自民党の良識派の方がまだ脈があるかもしれませんね。

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