いまの日本政府は、沖縄がどれだけ選挙で民意を示しても、知らんふりです。これに、沖縄のみんなが怒っています。これまで沖縄は、国家の意思を押し付けられて、苦しめられてきました。沖縄の私たちは、こんどこそ沖縄差別を跳ね返そうと、がんばっているのです。
これまでに、こんなに大差をつけて勝った選挙はありません。昨年の知事選で、翁長さんは仲井真さんに10万票もの差をつけて知事に当選したんですよ。なのに、首相の安倍さんは翁長さんに会おうともしないではありませんか。
基地がこれまでも私たちを苦しめてきたのに、悲しませてきたのに、辺野古にまた新しい基地を造るなんて。私たち沖縄の声に耳を傾けようとはしないで、どんどん強行してくる。なぜ日本政府の意思で私たちはいつも苦しめられないといけないのですか。沖縄の私たちは、日本国民ではないのですか。日本は民主主義の国なのでしょうか。
政府は、普天間基地を固定化するのかといって沖縄を脅しますが、辺野古に造れば基地が安全になるわけではありません。人権や命や暮らしが侵害されることは目に見えています。
沖縄はもう新たな基地を受け入れることはありません。普天間基地がある宜野湾市の人たちも、仲井真さんに投票した人よりも辺野古新基地建設に反対する翁長さんに投票した人のほうが多かったのです。建白書のように、沖縄は新基地建設反対、普天間基地の閉鎖を求めています。この1線は譲れません。
翁長知事は、新基地建設に反対する姿勢はぶれないと思います。オール沖縄で、県民の心を1つにしないと日本政府の基地の押しつけと闘っていけないという考えを持っています。イデオロギーよりアイデンティティーです。みんなをまとめることができる政治家です。沖縄の一番大事な政治家です。みんなが信頼しています。
実は、名護市長の稲嶺進さんは、地元出身の方です。私たちは、新基地建設に反対する市長をなんとしても誕生させたいと、稲嶺さんが初めて立候補した時から支えてきました。去年の1月に再選された後に、市長を1人ぼっちにしてはいけないと、市長を支える会もつくりました。仲井真知事(当時)に対して、「基地建設反対、知事の埋め立て承認撤回」を求める署名を提出して、新基地建設反対の意思を突き付けました。二見以北10区全住民の7割の署名です。
やはり、翁長さんを知事に選んで後はお任せ、ではいけないと思います。県民の先頭に立って頑張ってほしいので、いろんな行動をして、翁長知事を支えたいと思っています。
1月には、「辺野古・大浦湾に新基地つくらせない二見以北住民の会」として沖縄防衛局に「沖縄県知事による埋立承認の検証が終わるまで埋立に係る作業を中断する要請」を行い、その場で厳しく抗議しました。翁長知事に対しても、防衛局に作業の中断を要求してほしいと、要請しました 。2月には翁長知事に、1日も早く埋め立て承認の撤回を表明してほしいという要請もしました。
目の前の大浦湾はサンゴなど海の幸に恵まれたとても豊かな海ですが、巨大なコンクリートブロックを投げ込まれ、サンゴは破壊されています。沖縄の民意を無視し、新基地建設の作業が強行されています。新基地建設に反対し、抗議する人たちに対して、海上保安庁や機動隊が暴力で排除しています。
私たちはもっと頑張らないといけない。どんなことがあっても、座り込みに通い続けたいと思います。2月には地元の瀬嵩(せだけ)浜で、新基地建設に反対する緊急集会を持ちました。
このまま沖縄差別を許すと、私たちのいままでの苦労が報われません。翁長さん、私たちといっしょにいてください。支えますから、先頭に立って県民を引っ張ってください。
戦後、米軍キャンプ・シュワブがつくられたために、いろんな事件、事故がありました。沖縄には、普天間も嘉手納も、たくさんの米軍基地があって、大変な被害を受け続けていることに対して沖縄の人たちは立ち上がったと思います。名護では、1997年の市民投票のころから、基地に対する意識ははっきり変わってきたと思います。
米軍の新しい基地を建設する計画に対し、市民が立ち上がって市民投票をして、「新基地ノー」の意志を示しました。名護は新基地反対を決めたのに、東京で新基地を造ると決められました。それから18年です。名護市民、沖縄県民の怒りは強まるばかりです。
私の母は戦争未亡人でした。子ども4人を抱え、言葉には言い表せないほど戦後苦労しました。朝、頭に米俵を乗せてバスで行商して回りました。帰ってきてから洋裁、和裁に追われて、朝から夜遅くまで働き詰めでした。私が朝起きると、もう母はいない。1週間に何回、母の顔を見ることができたか。戦争も基地も、許せません。
私は基地のあるところを転々としてきました。中学までは金武町で育ちました。高校3年間はコザ市でした。大学を卒業して勤めたのが辺野古です。ベトナム戦争のころの辺野古はすごかったですよ。もうにぎやかで、きらきらでした。
いまは跡形もなく、想像もできないでしょうが、辺野古には映画館も銀行もあったんです。いま公民館のあるところがバスターミナル。町の両サイドに、ところせましとお店が並んでいました。いまは残骸しか残っていませんけど。
そのころは基地の恩恵を受けていた人もたくさんいたし、米兵は植民地気取りみえみえで街の中を闊歩し、私たちを見下していました。私たちは劣等意識を持ち、いつも小さくなっていました。しかし、生活が豊かになったいま、私たちは堂々と振る舞えるようになりました。
キャンプ・シュワブのゲート前の座り込みには、県内からだけでなく、全国からたくさんのみなさんに足を運んでもらって、大きな輪になっています。座り込みに参加していただいた方たちが全国に波を送り、その輪がさらに広がってきています。
日本全国のみなさん、沖縄に来て、辺野古を見て、沖縄の未来はこれでいいのか、平和学習の場にしてください。日本を考える場にしてください。翁長知事を誕生させたオール沖縄の団結をモデルにして、日本も変わってほしい。
【二見以北10区の会は、大浦湾周辺の10の行政区の集まりで、1500人ほどの小さな集落だ。新基地がつくられると、被害の深刻さは辺野古に劣らない。この地域の人々が、辺野古の人々とともに、稲嶺市長、翁長知事を誕生させた原動力となった。会長の松田さんの気持ちの優しさと芯の強さが伝わってくるお話だった。「日本も変わってほしい」との思いをきちんと受け止めたい。星英雄】