全国の注目の中で、翁長沖縄県知事と菅官房長官の会談が行われた。「問答無用」の高圧的な安倍政権が、「沖縄の声にもっと耳を傾けるべきではないか」という世論におされて実現した会談だったが、「辺野古の新基地は建設できないと確信している」と沖縄の民意を突き付けた翁長知事が、菅官房長官を圧倒した会談だったと思う。
マスコミ報道によれば、菅官房長官は「日米同盟の抑止力維持」、「普天間の危険性の除去」、「辺野古移設が唯一の解決策」と、これまで通りの主張を展開した。
翁長知事はこんなふうに話した。「私たちの思いとは全く別に全て強制接収され、県民に大変な苦しみを与え、そして今や普天間の危険性の除去のために沖縄が負担しろ」とは「日本の国の政治の堕落ではないか」
翁長知事は、米軍軍政下の絶対権力者、高等弁務官と菅官房長官の姿が重なると、安倍政権の新基地建設強行を批判してこういった。「県民の怒りは増幅し、辺野古の新基地は絶対に建設することはできない」
翁長知事は「新基地は絶対つくらせない」と菅官房長官に面と向かって宣言した。公約と沖縄県民に忠実な姿勢を鮮明にした。1部にある雑音も封じることになるだろう。
今回の会談は、翁長知事・沖縄県民の「新基地建設ノー」の闘いのまだ入り口に過ぎない。安倍政権がどれだけ強引に新基地建設を推進しようとしても、そのまま押し切ることはむつかしいから会談を設定した。これから世論の獲得をめぐって、さまざまな駆け引きもつづくだろう。根本問題は辺野古に新基地を建設することに正当性があるのか、ということだ。翁長知事の発言をかみしめたいと思う。
知事の言葉の背後には沖縄県民がいる。県民の意志がある。
「新基地建設ノー」は、県民の不退転の意志だ。それをつくってきたのは他でもない。戦後の日米両政府の過酷な仕打ちだ。とりわけ日本政府の沖縄差別、沖縄蔑視政策だ。
1995年の米兵による少女暴行事件からだけでも、沖縄県民は10万人規模の県民大会を4度も開き、地位協定の見直しや普天間基地の国外・県外移設を求めてきたが政府は耳をかそうとさえしなかった。
極めつけは2年前の1月、オスプレイ配備撤回、米軍普天間基地閉鎖、辺野古新基地建設反対の、沖縄全市町村長・議会議長による「建白書」が安倍首相に拒絶されたことだ。そのときのデモ行進で、「うじ虫」「売国奴」「日本から出て行け」といったヘイトスピーチを浴びせられた沖縄県民の屈辱を、われわれ1人1人が受け止めなければならないと思う。
翁長知事とともにあり、翁長知事を支える沖縄県民は、普通の人々だ。自分たちの生活感覚から、もう基地はいらない、いつまで犠牲にならないといけないのか、と叫んでいる。その人々が稲嶺進名護市長を誕生させ、翁長知事を実現した。
沖縄の民意をあらわすエピソードがある。ある著名な保守政治家は沖縄の琉球新報と沖縄タイムスという2つの新聞がなかったら、「オール沖縄として沖縄県民の意志をまとめきることはできなかった」と語った。
2013年4月28日を「主権回復の日」として沖縄の猛反発を受けた安倍政権。菅官房長官が沖縄のマスコミ各社を訪問して、懐柔しようとした。ところが、琉球新報社長は、県民の闘いを1面から報道している新聞の束を菅官房長官につきつけた。
ことし1月、沖縄と東京の新聞の違いをたずねた私に、琉球新報の編集局長、社長を歴任した高嶺朝一さんは、「そんなに違わない」と、こういった。「県民が闘っているからああいう紙面をつくれるんです」
沖縄県民は沖縄県政の主人公として、日本国憲法の主権者として立ち現われている。この意志を尊重することこそ、民主政治ではないのか。