【福島・沖縄からの通信】

星英雄:何もないけど、いい村だったんですよ、飯舘村は〈飯舘村レポート⑦〉

 長泥行政区は飯舘村で唯一の帰還困難区域に指定されている。高濃度の放射能汚染のため政府の2017年3月までの避難指示解除の対象からは外されている。

 区長の鴫原良友さんに案内してもらった。鴫原さんは車を運転しながらこんな話をした。「村長以外にだれが村を動かせるか」「村長としては村を閉めるわけにはいかないんだ」

 そんな鴫原さんだが、こうもいう。「国の代弁者といったら村長に怒られるかもしれないが、村長がいってることは国と同じだな。みんながわかるような説明をしてほしい」IMG_8022

 白鳥神社に着いた。長泥の住民は、春の例大祭には豊年と家族の健康などを願い、秋の例大祭には収穫と長泥の安全無事に感謝してきた。しかしいまは、無人の長泥だ。白鳥神社の周囲には、放置され、荒れ果てたままのビニールハウスが立ち並んでいる。放射線量は地上から40センチメートルの高さで、4・64マイクロシーベルト/時を記録した。人間が許容できる線量の上限は、0・23マイクロシーベルト/時(年間1ミリシーベルト)とされている。東京電力福島第1原発事故から4年以上過ぎてなお、その20倍の線量がある。

 ほどなくして、長泥十字路についた。かつては長泥の中心だったが、いまは不気味なほどに静まり返っている。ここは、原子力規制委員会が測定をつづけているが、私が持参した線量計(ALOKA)は、9・66マイクロシーベルト/時という高濃度の放射線量を記録した。IMG_8043

IMG_8041 長泥十字路を後にして、墓地に向かった。鴫原さんは先祖代々の墓に手を合わせた。このあたりも、高濃度の放射能に包まれている。

 道路を横切るサルが数匹見えた。イノシシやサルが横行しているとは聞いていたが、サルを見るのは初めてだ。草むらに逃げ込んだサルたちとは別に、ビニールハウスのパイプや無人の家の屋根のてっぺんに、悠然と構えているサルがいる。長泥は人間ではなくて、野生のサルが支配しているようだ。

 鴫原区長はいった。「耐えてるだけのいまの生活からは、夢も希望も生まれないと思う」。「長泥住民の顔を見て、安否を確認し、情報を交換することがなによりだ」。長泥の人のつながりを確かめ、長泥の伝統を後の世代につなげていきたいと、ことしも10月に長泥住民の集いを持つ予定だ。IMG_8065

 長泥の誰もが、長泥は消滅するのではないか、との危機感を抱いている。鴫原区長が発行人の長泥区報「まげねえどう! ながどろ」は第13号を数え、住民の聞き取り「長泥はどこから来てどこへ行くのか」は6回目となった。今回は「昭和36年生まれ」の高橋正弘さんの話。

 家は農業、子どものころから手伝い、稲刈りのときは「月明かりで、10時、11時ごろまで」働いた。22、3歳のころに「田植え踊り」を復活させ、県の芸能大会で優勝したことや、野球や村民体育大会のリレー等々で「長泥は強かった」ことなどの思い出を語る。

 そして、長泥を伝えていく思いを語った。「避難しないで長泥にいれば、やっぱりじいちやんばあちやんが常に教えて、活字で残らなくてもなんとなく伝わっていくじゃないですか。だけど長泥が、なくなるかもしれない状態の中で、みんな今ばらばらになってて、なおかつ昔のことを知ってる人たちがだんだん年を取ってきて、昔のことが全然分からなくなってきたときに、俺が今度孫ができたとき、『じいちやんのいた長泥って、今はないけど、どういうところだったの』って言われたときに説明できないじやないですか」                            「やっぱり、そうだな、自然豊かで、なんていうの、こう、平和っていうか、何の争いもない、本当に自然の中でのびのびと生活できる地域だったよということをきちっと残したい」

蕨平の除染風景

蕨平の除染風景

 飯舘村は除染の真っ盛りだ。宅地の除染を6月までに終わらせて、その後農地の除染に取り掛かり、帰村の地ならしをするという方針だ。しかし、飯舘村の除染には、放射線量をどこまで下げるかの目標値はない。福島市の除染は、年間1ミリシーベルト以下にすることを目指している。飯舘村の場合、村の面積の75%を占める山林も除染の対象から除いている。除染にたいする村民の不信は根強い。

 蕨平と小宮十字路の除染作業現場の近くで線量を測定した。蕨平は4・13マイクロシーベルト/時、小宮十字路は3・16マイクロシーベルト/時を記録した。

「除染作業中」の幟の横には除染土などが詰まったフレコンバッグ。小宮十字路で。

「除染作業中」の幟の横には除染土などが詰まったフレコンバッグ。小宮十字路で。

 飯舘村は村長らが村民との行政区別の懇談会を続けている。村の復興計画について村民の意見を聞くためだ。「いいたて までいな復興計画(案)」は今回で5版になるが、懇談会参加者は減り続けているという。「村長は村民の意見は聞くが、村の方針を変える考えはない」と村民は受け止めている。

 比曽行政区の菅野秀一区長は「なんか、もう、レールが敷かれているみたいな感じですね」と嘆く。「国にとっては私たち被害者がオリンピックの障害物に見えるんでしょうね。だから、政府は避難指示を解除したという形をつくろうとしているのだと思う」。

比曽の除染風景

比曽の除染風景

 村のやり方についてはこういう。「私たちの希望は村長だ、村の代表ですから。国と村の力関係を考えると村長のいうことも分からないではないが、住民の命、将来がかかっている問題なんです。安全・安心な村にしないで、何がいいのかな。村民あっての村じゃないですか」

 そして、かつての飯舘村を懐かしむ。「ほんとにいい村だったんですよ、飯舘村は。なにもないですけど。冬は雪が降るし、他に行くところもないし、勤め先もなかなかないし、不便ですし。でも、そんなところでも毎日笑って暮らしていたんです」

 3・11東京電力福島第1原発事故は飯舘村民にとって取り返しがつかない被害をもたらした。家族を奪った。一人ひとりの健康も生活も奪った。住み慣れた村をまるごと奪った。「までいな村」をつくってきた村長と村民の間に溝をつくった。

そして、飯舘村を存亡の淵に立たせている。

 5月24日、福島県二本松市で原発事故被害者の新たな運動がスタートした。東京電力や国を訴えている人たちをつなぐ「ひだんれん(原発事故被害者団体連絡会)」の結成だ。国と東電に対し、謝罪や完全賠償などを求める動きだ。

 「ひだんれん」の結成に「原発被害糾弾 飯舘村民救済申立団」が参加した。飯舘村民の半数以上が、原子力損害賠償紛争解決センター(原発ADR)への申し立てに立ち上がった。東電と政府に対して「決して泣き寝入りはしない」という村民の強い意志が込められている。

 村民の1人はいった。「人生は行政が決めるのではなく、自分が決めるものだ」

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