【連帯・社会像】

星英雄:沖縄戦体験者が語る「痛さの感覚は今も」

 明日6月23日は、沖縄の「慰霊の日」だ。昨年は、沖縄・名護市の県立名護高校で行われた慰霊祭を取材した。辺野古新基地建設を進めつつあった安倍政権に対峙する緊張感が満ちていたように思い出す。今年は昨21日、東京・浅草公会堂で市民団体「戦場体験放映保存の会」が催した「沖縄戦展」を見て、沖縄戦体験者の話に耳を傾けた。

金城圀弘さん(76)の体験談(概略)

 1938年、普通の農家に生まれた。両親と兄弟4人。昭和19年(1944年)3月22日、(沖縄守備軍という)32軍が配備され、学校や公民館、民家が兵舎として使われ、私の家にも武装した5、6名の兵隊が駐屯した。

 B29の爆弾投下がはじまると、ちぎれた鋼鉄のかたまり、剃刀状になったものが、四方八方に飛んでいき、首や腕が飛ぶ。いつなんどき、わが身に来るかわからない。IMG_8103

 昭和19年10月10日のことは鮮明に覚えている。朝の8、9時ごろ、東の空が明るくなっていた。両親は畑に出ていて、祖母が弟をおんぶしていた。4、5人の子どもが家の前で遊んでいた。南のほうから、飛行機の轟音が聞こえ、友軍だ、万歳、万歳と叫ぶわれわれの頭上を通り、那覇方面が空襲された。真っ黒い雲が立ち上がった。10・10空襲だ。

 夜は艦砲射撃、昼は機銃掃射。歩くにも支障をきたすほど、1面死体だ。3~6月の雨季の時期には、腐敗する。栄養失調で痩せた人間でも、腐れば膨れ上がる。膨れ上がった死体に間違って足を突っ込むと、ちょうど田んぼの水たまりの中に足を入れる感覚、さっと入ってしまう。足を抜くとウジが付いてくる。ウジは食いつく、その痛さの感覚はいまもある。

 どうせ死ぬなら、生まれ故郷に行こうと、与座部落の母の実家に行った。(1945年)6月11日か12日。祖母、母らみんなで缶詰を食べた。捕虜になる前の、最後の食事だった。

 6月13日の朝9時ごろ。フル装備の米兵が1人で来て、外に出て来いと。部落は見渡す限り焼けていた。祖母は焼身自殺した。わたしは捕虜として連行された・・・

 展示会場は、食い入るように見つめているたくさんの人がいた。IMG_8128

 「1944年8月22日対馬丸沈没」から、沖縄戦のはじまりとされる「1945年3月26日米軍、慶良間諸島に上陸」、「学徒隊(戦場に動員されれた少女たち)」などのコーナーに、沖縄戦についての証言や写真のパネルが展示されている。証言者は50人を超える。いずれも、この「沖縄戦展」を主催する「戦場体験放映保存の会」が収録した貴重な話だ。IMG_8120

 沖縄戦は、戦争終結後も悲惨を極めた。「1945年6月23日組織的な戦闘の終結」のコーナーに、1930年生まれ、当時高校生の森山英子さんの遺骨収集の体験証言がある。  「トウモロコシの袋を持って、授業が終わったら骨拾いなんです」「(糸満市)糸洲なんか、着物が見える、頭が腐れないで、骸骨で毛だけ生えている。火炎放射機で焼かれたサトウキビ畑は、新しい芽が出ているの。」  「水芋(サトイモの一種)って知っていますか? 母親が探すの。いっぱい草が茂っているところは、人が埋まっている。壕の大きな水、川、戦争中は血の海だった、それを汲んで飲むの」 (入ってはいけない区域に許可を得て入った)「皆いるのは生徒なの。顔の姿がそのまま残っている。まだ不発弾、地雷がある。引き上げになったの。頭だけをきちんと並べなさいと。もう、忘れられない」

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 本土防衛・国体(天皇制)護持の捨石にされた沖縄戦は戦後沖縄の原点といわれる。全戦没者は約20万人、そのうち一般住民の死者は9万4千人とされる。しかし、いまも新たな遺体が発掘されるなど、戦争の記憶は日々新た、そして、なお全容は定まらない。

 日本の国土のわずか0.6%の沖縄県に、日本にある米軍基地の74%が集中している。人権が踏みにじられ、生命が脅かされることは、本土復帰の前後で変わらない。沖縄戦で奪われた集落の上に、米軍基地がつくられた。沖縄の人々はことあるごとに沖縄戦を思い出すという。

 明日23日の「沖縄全戦没者追悼式」で翁長知事は辺野古新基地建設の中止を要求するといわれる。沖縄戦の追悼式に参加する安倍首相が新基地建設を正当化することは許されない。

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