9月27日午後、雨模様の飯舘村を車で訪ねた。例年なら稲の刈り入れ時期だというが、はじめて見る飯舘村にはもちろん、稲穂の姿はない。
大きな一軒家が目立つが、人の姿はみあたらない。骨組みだけになったビニールハウスの屋根に届きそうなほど伸びた雑草。村は、雑草が茂るにまかされたままだ。
いまは閉鎖されている飯舘村役場につく。役場機能は原発事故の後、福島市内に移された。
庁舎の前に設置された放射線モニタリングポストは、毎時0.69マイクロシーベルトを表示している。なんとなく、村民に帰村を期待させるような数値だ。ところが、持参した線量計ですぐそばの植え込みを測ると、2.69マイクロシーベルト。たまたまその場に居合わせた復興庁職員は懐疑的だったが、その職員の線量計ではかってみても、やはり2.48マイクロシーベルトの高い数値が出た。
「2.48」は、単純計算では年間21ミリシーベルトの高い放射線量に相当する。このあたり一帯は、自衛隊によって除染されているため数値が低く出るような仕掛けになっているにもかかわらず、この数値だ。とてもじゃないが、人間が生活できる場ではない。
「この先帰還困難区域につき通行止め」の看板。長泥地区の入り口だ。閉ざされた鉄扉の横には白い防護服とマスクで全身を覆い固めた警備員が立っている。
車をおりたとたん、線量計の警報音が鳴った。赤いランプが点滅する。7.69マイクロシーベルト。「ここは(放射線量が)高いですから」と警備員がいった。長泥地区は年間の放射線量が50ミリシーベルト超の「帰還困難区域」に指定されている。計測地点は長泥地区の外側だ。「7.69」は年間70ミリシーベルトに相当する放射線量だ。
小宮地区についた。剥ぎ取った農地を包んだ黒いビニール袋が水田の端に積まれている。「仮仮置き場」と称しているが、大量の汚染土が人体、環境にどんな影響を与えるのか。
政府が責任を持つ中間貯蔵施設が決まらない。もって行き場がない黒いビニール袋は、村の「一般廃棄物の最終処理場」である飯舘クリアセンターに積み上げられて、すでに満杯だ。そのため、隣の土地に環境省発注「仮置き場」の造成にかかったが、中断状態。そんな無責任な行政の産物が、「仮仮置き場」なのだ。
「土」は、飯舘村の農家が代々、何十年もの年月をかけてつくりあげてきた。除染で養分を含んだ表土を剥ぎ取った結果、水田を雑草が覆いはじめている。はたして何年待てば、この水田に稲を植え、刈り取ることができるようになるのだろうか。
除染は幻想でないのか
飯舘村に暮らす6000人余の人々は2011年3月11日に発生した東京電力福島第一原子力発電所の事故によって、「全村避難」を余儀なくされた。それ以前は、阿武隈山系北部の山あいに広がる豊かな自然に恵まれ、「までいライフ」というユニークな村づくりで知られた。あれから1年半余、「原発の恩恵は受けていないのに甚大な被害をこうむった象徴的な存在」(福島県復興総合計画課)といわれる飯舘村のいまをレポートする。
JR福島駅から南下して3つめの松川駅。そこから程近い工業団地の一角に、松川第一仮設住宅がある。狭い敷地に112戸、208人が暮らす。
「原発事故から1年半過ぎたいま、希望は見えてきましたか?」
集会所で自治会長の木幡一郎(75)さんに聞いた。
「自分の故郷に帰りたい、そこで一生を送りたい、それがみんなの本音だ」
「子や孫と生活できること、それが一番だベ」
小柄な体を少し丸めて、ぼそぼそと話しはじめた。
原発事故の前、木幡さんは水稲、葉タバコ、育成牛農家として暮らしていた。仮設住宅にきたのは原発事故から4ヵ月も過ぎた昨年7月。飼っていた牛を処分しなければ飯舘村を離れることはできなかったためだ。その間「どれほど放射線を浴びていたかわからない。飯舘村の畜産農家はみなそうだった」という。
原発事故は家族、地域の人間関係を断ち切ってしまった。木幡さんもいまは借り上げ住宅に住む息子と別居。4畳半に閉じ込められた窮屈な暮らしの毎日だ。もともと仮設住宅は長期の使用を想定していない。湿気で畳が腐り、床が抜けたりしたという。
仮設住宅暮らしはストレスを感じやすい。認知症が進むケースもある。自治会長として住民の対話や健康維持に気をつかい、お互い励ましあう毎日をすごしている。
「戻りたい、1年待てば戻れるだろう」。多くの村民はそんな希望を抱いたが、いまでは戻らない決心をする村民が増えたという。気持ちの変化をもたらしたのは、除染への疑問、いまなお高い放射線量だ。木幡さんはこういう。
「除染が声高にいわれるが、どれだけの効果があるのか。行政はおれたちを村に帰還させたいから大丈夫だというが、幻想でないのか」。
飯舘村は国が直轄で除染することになっている。だが、村民の見方は厳しい。
「生活空間の宅地を除染して避難している村民を早く村に戻そうという考えなのだろう。家のまわり20メートル四方が除染の対象だ。しかし宅地の後ろは山があったり農地があったりする」「放射性物質はいつまでも山林にたまって、生活環境を汚染してしまう」「放射性物質がとれにくい建物は除染の対象からはずしている」
国の除染に絶望的な農家のなかから、除染の実験に自ら乗り出す人たちもあらわれた。
村民は、低線量被ばくによる健康被害に敏感だ。政府と村、とりわけ政府の対応に大きな不安を抱いている。昨年、細野豪志原発相は「(年間)20ミリシーベルトで人が住めるようになる」と明言。政府はその考えで、村民の帰還を急いでいる。しかし国際放射線防護委員会(ICRP)は(低線量被ばくに対する評価の甘さが指摘されているが)、年間1ミリシーベルトを線量限度としている。そして、リスクが線量に比例して増えることは国際的な常識だ。
政府の対応について、東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(国会事故調)は厳しく批判する。「政府は一方的に線量の数字を基準として出すのみで、どの程度が長期的な健康という観点からして大丈夫なのか、人によって影響はどう違うのか、今後、どのように自己管理をしていかなければならないのかといった判断をするために、住民が必要とする情報を示していない」。
木幡さんは若者の将来が心配だ。「若い人が村に戻って農業後継者になって、子どもを生むことに不安がある。安心して子どもを生める飯舘村にならないとだめだ。」
泣き寝入りしない
飯舘村に戻ることに強い懸念を抱いている人たちも少なくない。市澤美由紀さんもその1人だ。夫の秀耕さんとともに飯舘村で自家焙煎珈琲店「椏久里(あぐり)」を19年間営んだ。
原発事故後、飯舘村で10日間営業したが、結局店をたたんで、昨年7月にいまの福島市内に新しい店を開いた。すばやい決断を促したのはやはり放射能汚染の問題だった。事故直後、村民を高い放射線にさらしつづけた政府と村の対応には納得がいかない。
「若い人たちを働かせていたので、被ばくのことを考えなければいけなかった。経営者として責任があるから」と美由紀さん。「あのとき、国が避難命令を出さないのになんで逃げなきゃいけないんだ、とまわりの男たちはいったんです。国を信じていたからですよね」「わたしは逃げないと被曝すると思った。放射能については夫婦でも考えが違うんです」
村への思いは簡単に断ち切れるわけではない。「飯舘村で3人の子どもを生み育て、30年間かけて村になじんできたんです」
飯舘村はいまから20数年前、20~40代の農家の嫁をヨーロッパ研修旅行に派遣した。その「若妻の翼」プロジェクト第1期生の1人が美由紀さんだ。「男尊女卑」の風潮が残るのは飯舘村も例外ではないが、「女性が意見をいう場がなかった飯舘村で、女性も参加してものごとを決めていくきっかけになった」という。
美由紀さんは、水俣病の加害企業と被害者のことを自分たちに重ね合わせてみる。企業も国も責任をとろうとはせず、被害者は辛酸をなめさせられた。「泣き寝入りしたくない。東電と国の責任をあいまいにすることはできない」と強く思う。市澤さん夫妻らは東電相手に、損害賠償を求める訴訟を起こしている。
「椏久里」は盛況だ。美由紀さんはコーヒーをいれるのに追われている。「村から避難したたくさんの人たちが痛みをかかえて生きている。このカフェで少しでも癒してもらえるならうれしい」
廃村の危機を乗り越えて
村に戻りたい人も戻らない人も、村への愛着は強い。いつかは村に戻って農業ができるように、村外で再起を期す若い農業者たちがいる。「たとえ100年かかっても村をきれいにして返してくれ」と話す村民もいる。しかし、放射性物質とのたたかいは、チェルノブイリのように長い苦難の道のりになることは避けられない。だからこそ、さまざまな思いに村民が揺れる。
飯舘村は「までいライフ」をキャッチフレーズに、村づくりをすすめてきた。「までい」とは「手間ひま惜しまず」「丁寧に」「心をこめて」「つつましく」という意味の方言。「真手」と書く。米や野菜づくり、近年は「飯舘牛」のブランド化をすすめてきた。「貧乏な村の歴史、文化、風土を生かした生活」と村民の1人は解説してくれた。「土があってなんぼの生活」を原発がぶち壊してしまった。
東京電力福島第一原発事故は、チェルノブイリ原発事故に匹敵する史上最悪の大事故だ。政府と村の対応が被害をより大きくした。飯舘村の住民から家族を奪った。一人ひとりの健康も生活も奪った。住み慣れた村をまるごと奪った。村民の怒りは消えない。
今春、共著で『飯舘村は負けない―土と人の未来のために』(岩波新書)を出版した千葉悦子・福島大学教授はそんな飯舘村にエールをおくる。「原発事故に襲われた飯舘村は廃村の危機に直面したと思う。ところが飯舘村は私たちの想像を超える頑張りをみせてくれた。までいな村、生活の質のよさを求める地域づくりに取り組んできたことが生きているのだと思う。村がこの7月に策定した復興計画第2版では、村内の放射線量の低い地区に復興の拠点をつくるとともに、放射能から若者・子どもたちを守るための村外拠点づくりを掲げている。しかし、先の見通しがたたないこともあって、村行政に対し懐疑的な村民もいる。村はこれまで以上に住民の声に耳を傾け、よりいっそう住民に寄り添うことが大事になっている」
強大な政府と東電に、飯舘村が一体となって立ち向かう。それが、復興への道につながるのではないだろうか。
飯舘村、福島を忘れない
いま、悪戦苦闘を強いられている村民を尻目に、政府と東電は「幕引き」を急いでいる。それに対する静かな怒りが広がりつつある。木幡自治会長はぽつりといった。
「国に(被害者の意に沿わない)法律をつくられ、法律でたたかれ、終わりにされてしまう」
避難者の生活が元に戻ったわけではない。明るい将来が約束されたわけでもない。それどころか、加害者の側が放射線量も損害賠償も線引きをして、それに沿わないものは切り捨てられる。やがては福島のことも原発事故のことも忘れ去られるのではないだろうか。政府の対応やマスコミ報道などに、そう感じるというのだ。
昨年12月、野田佳彦首相が原発事故の「収束」を宣言したことがはじまりだった。ことし7月、政府は飯舘村を「避難指示解除準備区域」「居住制限区域」「帰還困難区域」の3つに再編した。それにあわせて経済産業省と東京電力は、賠償基準を打ち出した。避難を強いられた村民がもとのように生活を営むことができる賠償なのか。村が3つに分断され、帰還困難区域だけが全額、賠償の対象とされている、など多くの問題点が指摘されている。
本来、事故によるすべての被害を対象に、全面賠償するのが東京電力の責任だ。政府にはそれを実施させる責任がある。しかし、原子力事故の損害賠償にかんする基本を定めた原子力損害賠償法も、昨年つくられた原子力損害賠償支援機構法もそうはなっていない。まず東京電力の救済ありき。被害者・村民の声はまともに反映されてこなかった。
「加害者は東電と国、わたしらは被害者だ」。取材の過程でなんども聞かされた言葉から、避難を強いられた側のやるせなさが伝わってきた。加害者が被害者を裁断する。そんな理不尽なことがあっていいのか。この原発事故は東京電力と政府によってひきおこされた人災なのだ。
松川第一仮設住宅に男の悲痛な叫びが響いた。「田地田畑、村をなじょしてくれんだ」
飯舘村を、福島を、忘れるわけにはいかない。
星さん、おはようございます。朝食を作る前、メールを知りました。ルポを一気に読みました。飯舘村の無念と、再起に向けた小さな希望が伝わりました。どんどんよいものを書いてください。
趣旨のなかに、ぜひ、日本国憲法の現代的意義を入れて欲しいと思いました。がんばってください。
ルポよかったです。事故の直前まで飯館村の人たちがどれほど頑張っていたのか、いまの国の政策と村民の間に壁があることがよくわかりました。私も頑張って取材します(北京から)
力のこもったルポと思います。どんなに遠くにいたとしても日本に起こったことを忘れないようにします。(ケープタウンから)
このルポはとても、村や村民の思いを大事にされていますね。そこから国の姿が見えます。
一気に読みました。先だって、園子温監督の「希望の国」の映評を「赤旗」に書いたばかりですが、もっともっと被災地の現状、復興予算の行きつく先の欺瞞など、広く知らしめなければならないと思います。とりわけ飯館村、フクシマの人びとの心の叫びを国民に伝えつづけ、絶対に風化させてはならないと考えます。
簡潔にまとめられ、しかも問題の所在を指摘されています。国会質問の準備で原爆被爆者について調べたことがありますが、爆心地からコンパスで円を描き、それ以外は被爆者としての援護を行わないことが、多くの被爆者を苦しめたことを知りました。それと同様のことがいま行われているのではないか。
被災者支援を粘り強く続けることが必要です。いま広島、長崎、福島、共通の問題性を一言でいうなら「線引き」です。今後の健筆を期待しています。
飯館の方々の心の奥底からの声が聞こえくるルポです。自治会長さん、仮設の男性。そして福島に移転させられた喫茶店の女性経営者。彼女は若い人たちの被ばくを気遣って店を引っ越した、「経営者の責任」だから!!この言葉のカケラでも東電の経営者はかみしめるべきでしょう。ところが、星さんが言うように、「加害者が被害者を裁断」しているのです。こんな理不尽がありましょうか!!「連帯・共同」の今後に期待しています。
現場に行かなければわからない放射線量、現場でなければ聞けない被災地の人々の話と息づかい、現場でしか感じとれない人間としての共感と今の政治への憤り……新鮮なルポでした。同じ東北の人間として心に残ったのは、男尊女卑といわれるなかでの女性の子どもと命に対する進んだ感性と生き方(コーヒー店主の女性)、「まで(い)な」という東北弁は仙台でも使いますが、「真手な」という
語源は知りませんでした。やはり「行き届いた」とか「ていねいな」「心こめた」とかいう意味で使われますが、これからこのウェブサイトが、女性たちも多数参加する、「までいな」広場になることを期待させるルポ第一弾でした。沖縄編を期待します。
真摯な取材に基づく「事実」のルポ。現地の人間の一人として、とてもありがたく、また心強く感じました。今置かれている現状は以前となんら変わりがなく、むしろ避難生活が長くなることへの不安と新たな課題が増す状況にあります。今後も「あるがままの現状」がしっかりと知らされ且つ多くの皆様とその事実を共有していくことが私たち現地の支えにも繋がります。「連帯・共同」の今後に期待します。またお出かけください。お待ちしています。