〈元嘉手納町長の宮城さんは1月のインタビューで「翁長知事は政府に頭をさげません」といった。その言葉は、翁長県政と政府との対抗関係をみていくうえで、私の助けになった。再び、翁長知事の後援会長でもある宮城さんに話をきいた。文責・星英雄〉
「建白書」を起点にして沖縄は大きく変わり始めました。2013年1月に、沖縄が安倍首相に「建白書」を提出してから、3年近くが過ぎました。県民は辺野古に基地をつくることを拒否し続けているのに、政府はあくまで押し付けようとし、オスプレイまで配備しました。それに対して「もういいかげんにしろ」と、県民はそろりと立ち上がった。それがいま起きていることの始まりです。
その後、仲井真前知事が辺野古埋め立て承認をしましたが、それで彼の人生は終わってしまいました。わずかなカネで「いい正月を迎えられる」というくらいだから、だれが知事になっても沖縄を軽く扱っていればいいというのが安倍政権の態度でした。翁長知事もやがてはひっくり返ると思っていたに違いありません。
ところが首相官邸にとっては意外や意外、翁長知事は辺野古の埋め立て承認を取り消しました。ここまで来ればもはや、国と県の闘いです。どちらかが折り合いをつけないといけないが、沖縄は弱者です。貧しくても生活さえできればと、生活苦と命の危険に耐えている沖縄が譲るものはなにもありません。
かつて防衛庁の守屋武昌事務次官と東京のある講演会でいっしょになり、ホテルで2人で食事をしたことがあります。そのとき守屋さんが私にいったことを覚えています。「町長、国が辺野古問題にいくらカネをかけたかわかりますか」というのです。投入した金額にこたえることができないと官僚として失格だ、だから自分は官僚として生きるために何が何でも辺野古に基地を造らなければならないと。これが官僚の理屈です。彼らは必死です。
安倍政権は辺野古に基地を造るためにあらゆる手を使うでしょう。しかし、それに負けるわけにはいきません。
安倍首相は「沖縄に寄り添う」といっています。長州男子に二言はないというのなら、安倍首相は「沖縄県民も日本国民だ」と、沖縄に手を差し伸べるのが筋ではないでしょうか。沖縄に日米安保の負担をさせている政府が、これ以上沖縄を差別すると、日米安保そのものがおかしな状況になってくると思います。
翁長知事は満を持して国連に臨みました。基地は人権問題であり、新基地建設に反対するのは沖縄の自己決定権だと訴えました。沖縄問題が世界を舞台に動きはじめたといえるでしょう。
翁長さんは日米安保条約を肯定する立場で政治家をつづけてきて、その語録も残してきました。しかし「あらゆる手段で辺野古新基地建設を阻止する」と公約して、知事になりました。いまの知事の行動は、彼の基本的な政治理念よりも、県民に対する公約を全うすることで貫かれています。
翁長知事を支えているのは、県民世論です。というよりは、県民の支持にこたえないといけないと、知事は懸命に闘っているのだと思います。
沖縄で基地問題を訴えてきた人たちは、生活に困らない教職員組合とか、公務員関係の人たちが中心でした。ところがいまや、辺野古の集まりはそうではない。高齢者が身銭を切って、辺野古に新基地建設反対の抗議行動に行く。新報、タイムスの報道もあって、沖縄の世論は盛り上がっています。
本土も変わってきたと思います。
辺野古基金には4億8000万円ものおカネが寄付され、企業や団体ではなく、7万人を超える人たちの、とくに裕福ではない人たちが浄財を提供してくれました。本土の人々から多くの寄付が寄せられているのも心強いことです。
朝日、毎日、東京の各紙や、ブロック紙などの社説で沖縄支援の声があがっています。政府は読み違えたと思います。沖縄だけの反対世論かと思っていたら日本の世論が沖縄の味方になりはじめています。沖縄だけでなく、日本の状況も大きく変化しているのです。
翁長知事は腹が座っています。新基地を造らせないことに命をかけています。安倍首相が国家のためにと言おうと、どう言おうと応じるはずがないのです。
翁長知事がぶれないのは、歴代のどの知事よりも沖縄に思いを深くしており、揺るがない信念を持っている政治家だからと思います。もともと翁長家は戦後、ウチナーンチュのアイデンティティーを大事にしてきた家族です。
しかし、彼が唱えるまでもなく、もともと沖縄県民には共通の歴史的背景があります。戦争で痛めつけられ被害にあい、戦後も基地問題で荷物を背負わされ、共通の体験がある。だから一緒に動くことができるのです。
私も一番上の兄を沖縄戦で亡くしました。当時、兄は師範学校の3年生。大田昌秀元知事は兄の1期後輩です。父親が戦後、兄の遺骨を拾いにいって、いまは実家のお墓に収めてあります。沖縄では、誰もが戦争とのつながりを持っています。沖縄ではどの家族もみんな遺族です。
翁長知事が誕生してこの間、沖縄の人々は、ウチナーンチュとしてのアイデンティティーを深くしていったと思います。国家・政府の強権的手法では治めきれないものがあるのです。
先日、砂川闘争(米軍立川基地の拡張に反対する闘い)の全学連のリーダーだった土屋源太郎さんから電話をもらいました。彼は1957年7月、基地に立ち入って逮捕された人物です。その1審の判決が、米軍の駐留は憲法9条に反するとした伊達判決です。
沖縄出身者としては唯1人だったかもしれませんが、私も砂川闘争の体験があります。当時、早稲田大学の学生でした。東伏見の寮からわずかなバス代を惜しんで、三鷹駅まで歩いて行き、そこから電車に乗って、砂川闘争に参加しました。
寮から学生で参加したのは私1人。寮のおじさん、おばさんたちが基地のフェンスに向かってデモンストレーションをし、私はその後について行動しました。私の場合は、もし基地で逮捕されたら沖縄にすぐ返される。そんな危険性を察知しながらでした。おじさんおばさんは、「学生さんは先頭だ」と私を前に押し出し、私は、基地に押し込まれないようにするっと後ろに回りました。
そんなことを鮮やかに覚えています。沖縄には基地の闘いがあり、東京には砂川闘争がありました。そして、私には正義感がありました。
島ぐるみ会議の結成大会でも言いましたが、まだ結集できない人たちをはじき飛ばすのではなく、あくまでも「建白書」の原点である「オール沖縄」でやっていこう。もっともっと大きな団結で辺野古新基地建設を阻止しよう。
いま沖縄と翁長知事が安倍政権に対抗しているのは正義の行動です。そして、今日とりうる最強の手段で闘っていると思います。それを支えるのが残りの人生をかけた私の使命です。