【連帯・社会像】

杉浦公昭:「オール沖縄」はなぜ勝利したのか? 戦後の非暴力座込み闘争に学んで

 沖縄県民は「建白書」を政府に提出。前知事は公約を裏切り「辺野古埋め立てを承認」。県民は「島ぐるみ会議」に結集し、「オール沖縄」の闘いで知事選、衆院選等を勝利した。なぜ「オール沖縄」は勝利したか?座り込みに参加して学んだ事を中心に記します。

1.はじめに
 2014年、名護市長選に始まり、名護市議選、知事選、衆議院選と勝ち進んだ「オール沖縄」は、なぜ勝利したか、知りたいと思いました。 今年3月、ふるさと納税に行った名護市役所で出勤途上の稲嶺市長さんに尋ねると、一瞬空を仰ぎ「沖縄の心」と答えて執務室に入られました。

 一方、辺野古座込みの熟年活動家は「辺野古の闘いの広がり」と応えました。 そこで、「オール沖縄」の源流を求めて、戦後の米軍基地建設による土地強奪反対の非暴力闘争史を、故大西照雄さんの「オスプレイパッドNO!高江座り込み5周年報告会」に於けるお話(今や遺言)を参考に、紐解いて見ました。

 戦後、住民が強制収容所に入れられている間に米軍基地建設が進められ、さらに1950年の朝鮮戦争以後、各地で土地強奪が進められました。住民は散発的な闘いをしましたが、米国の強権に敗け、不毛の地や南米に移住させられました。

 1952年4月28日、日本が形の上で独立した講和条約により、沖縄は本土から切り離され異民族支配下の無権利の状態に置かれました。この講和条約第3条こそは、昭和天皇の「天皇メッセージ」を一つの要因として、沖縄が切り捨てられた「屈辱の条項」であり、沖縄戦後史の出発点になりました。戦後、沖縄の人々は、米占領軍の絶対権力下の無権利の状態から、生きる権利を獲得するため立ち上がり、一歩一歩と闘いを進めてきました。

2.組織的な非暴力土地闘争の原点
 1954年4月立法院は、沖縄人民党の瀬長亀次郎、大湾喜三郎両議員の提案(発議)による米軍の土地買い上げに反対し、軍用地問題解決のための「四原則」(軍用地料一括払い反対、適正補償、損害賠償、新規接収反対)を採択し、米政府に陳情しました。

 1955年3月11日の米兵の伊江島上陸以前に、農民は「米軍を恐れない。布令や布告にとらわれない。自分たちは人間らしく闘う」との陳情規定を作って、準備していました。 11日、伊江島真謝に300人の武装米兵が上陸し、住民の家を焼き払い、銃剣とブルドーザーで土地を強奪。さらに住民の逮捕・投獄・暴行・占領地内外での爆弾投下や機銃掃射などの蛮行を繰り広げました。

 その結果、耕す土地を奪われた農民の母親2人が栄養失調で死亡し、多くの農民が餓死寸前におちいりました。土地を強奪された農民は、生きるために皆で基地に入り集団的な農耕を始めました。これが積極的非暴力抵抗と言われたもので、土地強奪に反対する闘いで最も大切にされた方針でした。 この伊江島農民の闘いが、戦後の沖縄で展開された米軍の土地取り上げに反対する組織的な闘争の原点となりました。
 伊江島の農民は、島内に限られていた闘いを島外に拡げようと、乞食行脚を開始しました。

 1955年7月喜屋武岬から翌年2月の大宜味村国谷まで、各地域の部落や家庭を回り、缶カラ三線を使って、土地強奪で生きて行けない実態とその不当性を訴えて歩きました。この宣伝行動で、孤立闘争の限界を解消し、沖縄民衆の強い同情と共感をえて、島中の心を一つに固める重要な役割を果たしました。

 1955年10月23日、米政府は、前年の立法院の陳情に対して、現地調査団を派遣して来ました。その調査結果の米政府への報告書をプライス勧告といい、陳情書の「四原則」を全面否定して、土地を二束三文で買い上げようとするものでした。

 沖縄の自治拡大、日本復帰、土地問題解決を唱えた先の「四原則」提案者・人民党の瀬長亀次郎氏は、人民党弾圧事件で不当にも2年間投獄されていましたが、1956年4月9日、獄中から出ると、那覇市長に立候補し当選しました。米軍は買弁資本の琉球銀行に命じ、那覇市への融資を凍結しました。これに対して那覇市民は自主的納税運動で反撃し瀬長市長を助けました。そこで米軍は、翌年11月布令集成刑法「破廉恥罪」で、瀬長亀次郎氏を市長職から追放しました。

3.「島ぐるみの土地闘争」の開始
 1956年6月9日、プライス勧告の内容を知った沖縄住民は、立法院議員、市町村長、市町村議、全てが総辞職をかけて反対の意思を表明しました。プライス勧告の全文が沖縄に届いた6月20日、各地で住民大会が開かれ、島民80万人の内の16万人から40万人が参加し、「島ぐるみ闘争」を形作りました。

 6月29日、真っ先に那覇高校生千名が校内集会を開き、続いて7月1日、首里高校、石川高校など21校に広がり、7月20日には琉球大学で闘争委員会ができました。7月28日、沖縄全住民は「四原則」貫徹を掲げて島民大会を開き、島民80万人の内50万人の参加を得て「島ぐるみ闘争」を成功させました。 この「闘争」が高揚と停滞を繰り返し、今日の「オール沖縄」に発展してきたと考えられます。

 1960年代になると第二次土地接収がおきました。伊江島の金網のない基地の「黙認耕作地」とか金網の中の「黙認牧草地」は、命をかけた請願・抵抗権(積極的非暴力抵抗権)闘争の貴重な成果として残りました。沖縄県民は統一戦線「民連」を組織、4月28日、「沖縄県祖国復帰協議会」(復帰協)を結成、自由・人権・自治を含む壮大な運動を展開しました。

4.「島ぐるみの土地闘争」の成果
 島ぐるみ闘争以前、米政府は沖縄を核兵器基地として我がもの顔に支配し、日本政府でさえ口を挟ませない強力な統治権を行使していました。 その下で、沖縄住民は自由横来権さえなく、占領軍の許可なく出入国できませんでした。

 しかし、「島ぐるみの土地闘争」の住民パワーに押された米占領軍は、住民大会の代表や報道関係者などの本土への自由往来を認めざるを得なくなり、彼らが設けた日本人民間の壁に風穴が開けられ、沖縄の状況は堰を切ったように本土や世界に知られるようになりました。 その結果、本土国民の沖縄に対する関心がにわかに高まり、本土での沖縄返還運動の前進と、沖縄での日本復帰の土壌も強められました。

 1969年11月、日本への復帰-返還運動に押された佐藤―ニクソン会談は1972年中の返還を合意しましたが、それは、飽くまで日米軍事同盟再編強化の一還に過ぎませんでした。

5.部落、村、島の「ぐるみ」闘争は必ず勝利する
 1970年代に入ると、12月31日の国頭村安田の150ミリ砲の実弾射撃訓練を阻止した闘いがありました。これは、一年もかけて民主的な話し合いを積み上げ、作戦を練って闘い、部落ぐるみ、村ぐるみ、島ぐるみの積極的な非暴力として凄い成果を挙げました。

 基地の中に入る決意をした時には、怯まず敢然と闘うことを決めていました。まず、着弾地点で男たちが白い煙を上げ、それを見て女性たちが発射地点に鉄条網を破って入って砲座をとり囲み、その後、男たちが砲座を撤去させました。

 1972年の祖国復帰後に象徴的に闘われたのは恩納村の都市型訓練場です。ゴボウ抜きされても、もの凄い怒りをこらえて、元へ戻って非暴力の抵抗を続けました。その他、闘争小屋を焼かれても頑張った昆布(地名)の闘い等がありました。

 辺野古の座込みテント村村長だった故大西照雄さんは、「今後、米軍基地新設反対の闘いの山場を迎えた際、復帰闘争碑文を思い起こして欲しい。『民衆が信じ合い、自らの力を確かめ、決意を新たにする時』即ち、沖縄県民の心が一つ(ぐるみ)になった時、如何なる闘いも必ず勝利できる」との激励の言葉を残しました。

6.土地強奪反対の積極的非暴力抵抗の継承
 2004年からの辺野古の闘いでも、非暴力抵抗で闘った伊江島の反戦地主・阿波根昌鴻氏の肖像写真が飾られ、その伝統が受け継がれています。

 私が座り込みに参加した毎朝のミーティングでは、座り込み参加者に襲いくる機動隊と非暴力で抵抗する訓練もされたし、その場合、責任者の指示に従わない人は参加できないこと、約束事を守ること、周囲の市民への道徳的配慮をすること、などが確認されました。

 こうした「非暴力の座りこみ」は日本の法律体系では裁けず、高江のスラップ裁判でも裁けなかった国民意志の重要な「表現方法の一つ」です。

7.沖縄の平成一揆の直訴状=『建白書』
 沖縄県民は「命」に関わる重大事項に関して島ぐるみで闘うという良き伝統を築いてきました。  最近には、2010年の基地の県内移設反対と2012年のオスプレイ配備に反対など10万人前後の県民を結集した沖縄大会を開いてきました。その積重ねの上に、保革を超え全沖縄首長が連判した「オール沖縄」の『建白書』を作り上げました。

 2013年1月27日の「NO OSPREY 東京集会」で、玉木義和事務局長は「これは、沖縄県民の総意であり不退転の決意として直訴します。民主主義国家において非暴力で取りうる極限の方法です」と述べ、本土の国民が日本の安全保障を自らの問題としてとらえ、共に立ち上がるよう訴えました。

 翌28日、安倍首相に対して、「オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会実行委員会」によって提出された「オール沖縄」の「建白書」の要点は、「1. オスプレイの配備を直ちに撤回すること。及び今年7月までに配備されるとしている12機の配備を中止すること。また嘉手納基地への特殊作戦用垂直離着陸輸送機CV22オスプレイの配備計画を直ちに撤回すること。2. 米軍普天間基地を閉鎖・撤去し、県内移設を断念すること」でした。「NO・OSPLEY 沖縄直訴」は、沖縄基地問題の歴史的分岐点を超えたと言えます。

8.日米政府の狙う辺野古の美ら海埋め立の意味
 辺野古の海は、世界遺産になるべき多様性希少生物の宝庫の海です。この埋め立は前代未聞の大規模自然破壊になります。単なる飛行場でなく、中国を仮想敵国とする米軍の新要塞建設です。

9.自民党政府の沖縄自民党への公約撤回の暴圧
 自民党政府は、2013年4月の時点で西銘、島尻、11月には宮崎、国場、比嘉を含めて5人の沖縄選出の国会議員に「県外移設」公約を撤回させ、まるで「さらし者」のような形で、石破幹事長の「辺野古推進」記者会見に同席させました。

 2013年12月2日の沖縄県議会は「辺野古沖移設を強引に推し進める政府に対して激しく抗議し、普天間基地の県内移設断念と早期閉鎖・撤去を求める意見書」を全会一致で可決しました。

 自民沖縄県連の公約撤回直後の12月4日に、沖縄タイムスと琉球朝日放送が合同で世論調査を行い、その結果、知事が辺野古埋め立てを承認しない方がよいと答えた人が72.3%。自民党の地元国会議員や自民県連に方針転換させた政府・自民党の姿勢に72.6%が納得できないとしました。

10.安倍首相と仲井真知事の個人的政治的取引
 2013年12月25日、安倍首相は、沖縄振興予算として毎年度3千億円台を確保すると公言。仲井真知事は「驚くべき立派な内容」と評価。辺野古の海の埋め立てを承認しました。そして、「良い正月が迎えられる」とうそぶき、沖縄県民の誇りを傷つけ怒りを買いました。

 27日午前から、急遽、県庁に集まった2000人の県民は、このままでは沖縄は『自発的隷従』になってしまうと反発し「県民の総意は、あの建白書に脈々と息づいているぞ!」と叫びました。 知事埋め立て承認直後の世論は、「知事承認」不支持が61%「公約違反だ」が72%、「無条件閉鎖・撤去」を求める人が73.5%に上りました。

11.辺野古の環境アセスと闘っている立場から
 2007年以来、「米軍再編強化のための辺野古の環境アセスメントと闘って」を研究テーマとしてきた者とし、特に次の点を触れて置きます。

 仲井真知事は、2013年2月20日、国に対して評価書に示された環境保全措置では404件にも及ぶ問題点が有るので辺野古周辺地域の「生活および自然環境の保全を図ることは不可能」との意見を提出していました。それを2013年12月25日に埋立て承認したのですから、不可能が可能になった理由を科学的証拠に基づいて県民・国民に示すべきです。この証拠が出せないから、証拠をださい点も、埋立て承認の決定的な瑕疵であります。

 そもそも日本の環境アセスメントは「環境アワセメント」であり、政府も知事もアセスメント法を守りませんでした。一科学者としては、科学に基づかない国民騙しの政治は、必ず破綻し、国を滅ぼすことを警告します。

12.建白書実現へ「島ぐるみ会議」発足
 2014年3月22日、沖縄帰属の保革を越えた政党や労働・経済界関係者、研究者ら約90人が名を連ね、「沖縄『建白書』を実現し未来を拓く島ぐるみ会議(略称・島ぐるみ会議)」の6月発足をきめました。事務局の玉城義和県議は会名に『未来を拓く』と入れたのは、広く沖縄の未来は自分たちで決めようという(自己決定の)決意を込めたから」と説明しました。(島ぐるみ会議の実際の発足は、2014年7月27日に延びました。)

 このようにして開始された新たな「島ぐるみ会議」への沖縄県民の結集が「オール沖縄」となり、翁長知事誕生の母体になりました。

 今後、「オール沖縄」が団結を強め、日米政府の様々な分断工作を許さず『建白書』に結集した民意を守り切れば、自主自立精神の誇りある豊かな沖縄自治体が生まれるに違いありません。それは自主独立の日本への先駆けとなると考えます。 (日本科学者会議埼玉支部代表幹事)

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