【連帯・社会像】

樋口茂雄:忘れられない女優・原節子のストックホルム・アピール署名

 今朝の新聞には「原節子さん 死去」と報じられています。そして、「わが青春に悔なし」(黒沢明)「安城家の舞踏会」(吉村公三郎)「青い山脈(正・続)(今井正)「めし」(成瀬巳喜男)「東京物語」(小津安二郎)など戦前戦後を通じ、小津安二郎、今井正など巨匠たちの名作映画に出演。「永遠の処女」と呼ばれたとか、42歳で突然に引退、その後はひっそり暮らした後半生であったとも報じられています(「東京新聞」等より)
 
 しかし、女優・原節子が「わたしたちは大量の人間をみなごろしにするおそろしい原子兵器の絶対禁止を要求します」と書いたストックホルム・アピールに署名をしたことを報じた報道には、「図説国民の歴史」20巻以外には接することができませんでした。そこで、その証拠写真を添付し、多くの皆さんがお忘れかもしれない、あるいは、ご存じないだろうストックホルム・アピール、私の頭の片隅にかすかに刻まれているストックホルム・アピールについてご紹介することをお許しください。

 「戦争法廃止!」の運動を進めている今だからこそお伝えします。ただし、これも「図説国民の歴史」(日本近代史研究会編著)(昭和40年5月1日発行)のP.93~94の文章を書きうつしますことをお許しください。
 
 『敗戦後五年、日本はふたたび戦争体制となった。マッカーサーは共産党機関紙を停刊にし、全国労働組合連絡協議会(全労連)を解散した。政府機関・新聞報道部門・重要産業の会社から、1万2千名におよぶ共産党員とその同調者と目された人が、占領軍の示唆ないし指導によって、職場から即時追い出されるレッドパージが強行された。占領軍命令は憲法その他一切の国内法規に優先するとして、言論・集会・結社の自由はまったく失われた。日本国憲法は、このときその機能を停止したといえる。

ストックホルム・アピールに署名する女優・原節子(『図説国民の歴史』20巻から)

ストックホルム・アピールに署名する女優・原節子(『図説国民の歴史』20巻から)


 こうした状況のなかで、ストックホルム・アピール、ベルリン・アピールの署名運動がおこなわれた。街頭署名は交通妨害だと追い出され、活動家には私服の尾行がつけられ、「赤の手先」というデマが流された。その圧迫に抗して、一軒一軒の家に入りこみ、膝をまじえて話しこむことで、署名があつめられた。


 ストックホルム・アピールは、昭和25年(1950)3月、平和擁護世界大会委員会が原爆禁止を訴えたもので、日本は資本主義国ではイタリア、フランスにつぐ第三位の六百四十五万の署名が集まり、世界総計で五億というおどろくべき成果をあげた。ついで朝鮮戦争がおこった直後の二十六年二月、世界平和評議会は日・独の再軍備反対と五大国平和協定の締結を求めるベルリン・アピールを発表したが、これにも六百十六万の国民が署名した。


 この平和運動は、たんなる願望の表明ではなく、朝鮮戦争での原爆投下を企図したアメリカの作戦計画を阻止し、ついに、休戦を実現するという、国際政治を動かす現実の力のひとつとなった。国民はこれに参加することによって、国際連帯の力がいかに大きいかを知り、自己の敗戦体験と原爆被災体験とに裏づけられた平和意識の確かさに自覚と自信をもった。戦後日本の民衆運動の中核ともいうべき平和運動は、ここに出発点を与えられたのである。』
 
 色々学ぶこと多いと思いますがいかがでしょうか。(活かせ9条松戸ネット・世話人)

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