【福島・沖縄からの通信】

星英雄:沖縄差別の根源には、日米安保条約がある〈2015沖縄レポート⑦〉

 辺野古新基地建設のためには手段を選ばない安倍晋三政権。沖縄に対する差別は許さないと沖縄の人々は反対闘争を強化する。差別の根源には日米安保条約がある──。

 「オール沖縄会議」共同代表の高里鈴代さんには、忘れることのできない体験がある。2013年1月27日、東京・銀座での出来事だ。オスプレイの配備撤回、米軍普天間飛行場の撤去と県内移設断念を求める「建白書」を安倍晋三首相に手渡すべく、沖縄の代表団が上京した。高里さんもその1員だった。日比谷野外音楽堂での「NO OSPREY 東京集会」を終え、銀座でデモ行進をして訴えた。そのときだった。

 「すさまじいヘイトスピーチでした。デモ行進の両脇には、日の丸の旗や旭日旗を持った人たちがいて、『オスプレイは国を守るために必要だ』『いらないなら日本人じゃない』『売国奴』『日本から出ていけ』などと、罵声を浴びせられました。韓国・朝鮮人に対するヘイトスピーチはこういうものなのかとも思ったし、許せないと怒りもわきました。沖縄の総意ですよ、『建白書』は」と高里さんは述懐する。

 「非国民!」という言葉も浴びせられた。米軍基地建設に反対することが「非国民」とは、あの戦争の暗黒時代と変わらない。「ゴキブリ!」「ドブネズミ!」など口汚い罵詈雑言が飛び交った。それでもまだ終わらなかったのだ。

 その後、代表団は分担して外務省、防衛省、米国大使館に働きかけることになっていた。ところが、それを待ち構えて、旗を持って陣取っていたグループがいた。ボリュームを最大にした宣伝カーから、「今日の行進は何だ」「ドブネズミ」などとあらん限りの罵声を浴びせられた。

 デモ行進に参加した沖縄の代表団は誰もが驚愕した。当時、病で入院していた宮城篤実・元嘉手納町長のところにも、銀座でデモ行進をした首長らが次々にやってきて、驚きと悔しさを訴えたという。

 「『建白書』の実現のために東京にいった若い首長らが、ヘイトスピーチを浴びせられて大変なショックを受けて戻ってきた。自分たちは日本人だと思っていたら、銀座のデモ行進の時に、『日本から出て行け』とやられた。まるで沖縄県民は日本人じゃない、と言われたようなものだ」と、宮城元町長は憤慨した。

 普天間基地の閉鎖・撤去と県内移設断念を求める「建白書」には、沖縄の全41市町村の首長、議長が署名をした。「東京行動」は沖縄の歴史上画期的と評される。それに対する仕打ちだ。「沖縄県民は日本人ではないのか」「いや、人間扱いもされない」と、沖縄の人々が怒るのは当然ではないか。

 銀座の出来事が特殊というわけではない。安倍首相を支援する自民党議員の勉強会で、作家の百田尚樹氏らが沖縄を攻撃したことも忘れるわけにはいかない。安倍首相と親密な百田氏は「もともと普天間基地は田んぼの中にあった。周りに何もない。基地の周りが商売になるということで、みんな住みだし、今や街の真ん中に基地がある」「基地の地主は大金持ち。基地が出て行くとお金がなくなるから困る。沖縄は本当に被害者なのか」といってのけた。

 相手が沖縄なら、嘘をいっても構わないのか。相手が沖縄なら、米軍基地を押し付けても、差別しても許されるのか。そんなことはない。IMG_3068

 「日本の0.6%の面積の沖縄に、米軍基地の74%が集中している」沖縄の現実をみてほしいと沖縄の人々は訴える。これこそ、沖縄に対する差別によってもたらされたものではないか。翁長知事も「沖縄県民も日本人であり、同じ日本人としてこのような差別的な取り扱いは、決して容認できるはずもない」と県民の声を代弁している(代執行訴訟「翁長知事陳述書全文」)。

 もう、差別は許さない。これが沖縄の声だ。沖縄の人々が差別を甘受する時代は終わったのだ。

 われわれ「本土」の人間は、沖縄の声をどのように受け止めるのか。そのことが問われてもいる。

 安倍政権下で、沖縄差別がまかり通っている。なぜか。日米軍事同盟の維持・強化のためには、沖縄に犠牲を強いるのは当たり前という考えが安倍政権なのだ。代執行訴訟の第1準備書面では「都道府県知事は、国防上の必要性や外交上の必要性に関して審査判断する権限はない」と主張している。沖縄は黙って従え、というものだ。

 辺野古新基地建設も、戦争法制も安倍政権の対米公約だ。日米安保体制・日米軍事同盟強化が、沖縄に犠牲を強いる構図が鮮明になっている。IMG_9358

 今日の沖縄差別の根源には日米安保条約がある。

 新崎盛暉・沖縄大学名誉教授はこういっている。「沖縄への基地押しつけを中心とする差別的仕組みは、日米安保体制維持のための不可欠の要素とされてきた」(『新崎盛暉が説く構造的沖縄差別』)

 平良修牧師もまた、差別の根源に、日米安保条約があると強調してやまない。

「沖縄差別の根である日米安保を破棄することができるかどうか、その覚悟が日本の国民にあるかどうかなのです」「皆さん日米安保廃棄の国民運動を起こすことができますか?」と、問いかけている。(『富坂キリスト教センター紀要第4号』)

 平良牧師は沖縄が日本に復帰する以前の1966年11月、米軍政下の沖縄を統治する第5代高等弁務官の就任式に立ち会った。その時、若き沖縄キリスト教短大学長だった平良牧師の祈りは、外電となって世界に発信された。
「新高等弁務官が最後の高等弁務官となり、沖縄が正常な状態に戻ることを強く希望する。・・・100万市民の人権の尊厳の前に深く頭を垂れさせたまえ」
 50年近い歳月を経ていまなお、平良牧師は米軍キャンプ・シュワブの前に座り込む。

 戦後の沖縄の歴史は、沖縄の人々の1人1人の尊厳、沖縄の尊厳と人権を求めて闘う歴史だったといえる。米軍直接支配下の島ぐるみの土地闘争も、日本復帰後の米軍基地反対闘争もそうだ。非暴力・不服従の運動で少しずつ人権を闘い取ってきた歴史なのだ。

 10月下旬、辺野古ブルーのテント。「安保廃棄! 沖縄返せ!」の女性リーダーのコールに、座り込みの人たちが声を合わせ、響き渡った。「アンポ・ハイキ! オキナワ・カエセ!」「アンポ・ハイキ! オキナワ・カエセ!」────。

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