【連帯・社会像】

星英雄:なかったことにされるのが一番つらい 東日本大震災の「語り部バス」に乗って

 正月の3日間を東日本大震災の被災地の温泉で過ごした。1月5日朝は、南三陸ホテル観洋の「語り部バス」で、被災地の現状を見せてもらった。気が引けないわけではなかったが、「観光は復興の力です」といってもらって、少しほっとした。

 「語り部バス」は「震災を風化させないために」と2012年2月からはじめた。従業員がガイドとなり、すでに9万人の客を案内しているという。

 高台にある戸倉中学校はすでに廃校となった。校舎の壁の時計は震災発生時に止まったままだ。高台の校舎の1階まで水に浸かり、犠牲者が出た。このあたりの人々は「山から津波が来た」というそうだ。海から襲ってきた津波が山にぶつかり、渦を巻いてまた人々を襲った。DSC01974DSC01975

 

 校庭跡にはいまも仮設住宅が立ち並ぶ。「阪神・淡路大震災では5年で仮設住宅はゼロになった。ここは5回目の冬を迎えたが、まだ(当初入居の)6割が住んでいる」とガイドはいった。

 すこし離れた戸倉小学校は跡形もない。津波の2日前、新しい体育館が完成したばかりだったが、いまは、かさ上げされた整地があるだけだ。学校は別の場所で再開された。DSC01977

 1日前の避難訓練が役立ったという。屋上ではなく、高台に逃げることにした。当時、在校していた生徒らは全員高台に避難し、さらに高い神社で1夜を過ごして無事だった。川嶋あいの「旅立ちの日に・・・」を子どもたちが歌い、親や祖父母らを励ましたという。

 むき出しの赤い鉄骨は、南三陸町の防災対策庁舎の跡だ。何度か映像を見た記憶があるが、実物を前にして言葉がない。赤い鉄骨も、外側の非常階段のぐにゃりとなった変形も、津波のすさまじさを教えてくれる。DSC01984

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 わずか1時間の現場めぐりだったが、心に刻まれた。

 時の経過とともに、東日本大震災を忘れさせてはいけない。「語り部バス」のガイドがいった。「なかったことにされるのが一番つらい」

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