【福島・沖縄からの通信】

木幡一郎:飯舘村を追われて5年 帰りたいが村は姥捨て山になりはしないか心配だ

 3月11日は、東京電力福島第1原発事故から5周年になる。9日には大津地裁が再稼働中の関西電力高浜原発3、4号機の運転差し止めの仮処分を決定した。安倍政権は原発再稼働を推進するが、事故直後の「原子力緊急事態宣言」はいまも解除されてはいない。原発事故は収束していないのだ。人命も人権もかえりみない安倍政権のなんと非人間的なことか。原発事故で避難を余儀なくされている福島の人々は何を思うか。全村避難がつづいている飯舘村の人々が暮らす松川第1仮設住宅自治会長の木幡一郎さん(79)に語ってもらった。〈文責・星英雄〉

 飯舘村は政府の安易な帰還政策に追随して来年3月に帰村宣言をする予定です。それに合わせて、いま福島市内にある役場も、7月に村に戻る準備を進めています。去年村内に公民館を建設し、2月には、いままでやっていた福島市内の「いやしの宿いいたて」も閉鎖するなど、帰村に向けたインフラの整備をしている最中です。

 私らが一番気にしている除染は十分ではなく、まだまだ高い放射線量です。村は政府の方針に則って生活しろ、国の言う事を聞いていればいいという考えのようで残念です。

 3・11の事故がおきるまで、原発の事故は想像したこともありませんでした。大地震は恐ろしいと思っていたが、放射能の怖さにはじめて気が付きました。

 原発の事故直後は、飯舘は安全だといわれました。よそから避難した人たちがどんどん飯舘村に来て、飯舘村の人たちがその人たちの世話をしました。実はすごい放射能が降ってきていたことはもっと後で知らされたことです。国と村の責任は大きいと思います。

 飯舘の放射能は高いから避難しろといわれて、どこへ逃げたらいいのか。みんな身内がバラバラに避難しました。かなりの放射線を浴びてしまったと思います。私は和牛を飼っていたので、7月まで飯舘村にいなければなりませんでした。

 松川第1仮設住宅での暮らしも、5年近くになりました。私は当初からずっと自治会の会長をつとめてきています。100世帯、170人がここで生活していますが、5年前と比べると50人ほど、仮設から出ていきました。残っている人はほとんどが、仮設住宅を閉じられると村に戻るしかない人たちです。

松川第1仮設住宅

松川第1仮設住宅

 長い仮設暮らしでストレスを抱え、健康を害する人たちもいました。安普請の狭いプレハブ住宅に慣れることは容易ではありません。

 仮設住宅の暮らしはいまは安堵しているというか、落ち着いた状態です。しかし、仮設暮らしが長くなることはそれだけ、孤独が深まることでもあるのです。帰村のことを考えると不安でいっぱいです。

 ここにいれば、周りに顔見知りの人がいるから、声をかけあえばすぐ話ができる。励ましあって生活できました。村に戻ればそうはいかない。村に戻れば、隣近所は遠くなる。子や孫たちは戻らない。それよりもここにいれば生活用品は簡単に買えます。

 私は孤独な高齢者が寄り添って暮らせるように高齢者住宅をつくるよう提案しましたが、検討してはもらえなかったようです。帰村するには、家のリフォームや新築をしなければならないが、その見通しもたちません。建設業者が大量に不足しているので、家を建てられないのです。リフォームにも対応してもらえません。飯舘村だけではない、浪江でも大熊でもそんな状況です。オリンピックの工事も影響していると思います。

 放射線量が高いから、飯舘村の植物は食べられない。原発事故前は、山菜でもなんでも食べられたのに。来年の帰村宣言で食べられるようになるわけでもありません。

 ですから、帰村を心待ちにしているというよりも、むしろ仮設住宅に住まわせてほしいという気持ちです。ただ、ここで死にたくないから村に帰りたい、という気持ちもあるのです。

 村役場のやることは村民の気持ちに合わない。かけ離れていると思います。帰村宣言しても若い人は帰らないから、年寄りは姥捨て山に追い出されると感じています。

 原発事故で村人はいくつにも分断されてしまいました。原発事故は人災です。東電と国には責任をきちんと果たしてもらいたい。私たちは原発事故のことを忘れません。全国の皆さんも忘れないでください。

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