群馬県川原湯温泉を訪ねた。この地では「八ッ場」と書いて「やんば」と読ませる特異なダムが目下、24時間突貫工事中である。何度かお世話になった、ひなびた温泉宿はダム完成後に水没するため、すでに代替地の高台に移転していた。
移転前の定宿は、JR吾妻線の川原湯温泉駅から名勝吾妻峡に沿った道を登ったところに谷にへばりつくようにあり、往時は16軒の温泉宿があった。レトロな雰囲気を残し、清冽な水の流れの川にはサンショウウオ、イワナ、沢ガニがいた。谷底のわずかな平地には水田があり、山林奥深くの小川沿いにワサビ田があった。山に囲まれたこの温泉宿への投宿は何かとめまぐるしい日常から離れての一服の清涼剤であった。
しかしその山里は無残にも変わり果てていた。峡谷沿いをゆるりと走っていたJR吾妻線は、高所に線路を敷設替えし、里山をぶち抜いた延長8㎞に及ぶ3本のトンネル、橋梁5橋、高架橋1箇所で結ばれ、駅も高台に新設された。総事業費300億円を投じて、清水、西松、間組の大手ゼネコン共同企業体が施工したという。
群馬県下でも歴史のある長野原第一小学校もやはり高台に移転。“明治期”の雰囲気を漂わしていた旧校舎は鉄筋コンクリート3階建ての近代的な学舎に変容していた。町営住宅は庭付きの1戸建て、30坪ぐらいのガーデン付きだ。Ⅴ字型の峡谷を縫うようにあった国道145線と県道も高所に付け替えられた。
総じていえば、新しいピカピカの“まち”が山里に忽然と現れたという表現が適切であろうか。阿部知二や若山牧水など文人、詩人がこよなく愛していたこの地のダムサイトにやがて高さ131m、堤高長336mのコンクリートの塊が出現し、340世帯の住まい、田畑が水没する。先祖代々の己が土地に杭が打ち込まれ、コンクリートが流される行為はやむなく高台に、あるいは先祖代々住み親しんだ故郷を離れ転出した人々にとっては身を切られる思いであろう。
宿主の先代はダム建設反対の旗を振った一人であると聞いた。山里の珍味に舌鼓を打ちながら宿主にダムに纏わることに話題を向けたら一口も開かず厨房に去った。
駅まで車で送ってくれた宿主の姉さんは、「昨夜はごめんなさい。兄はもうダムのことは忘れたいのです」と静かに語った。本体工事費2110億円、その3倍もの関連事業費を合わせると8900億円、さらに工事費は膨らむともいわれている。首都圏の水がめ、治水を名目にしているが、すでに水余りで、その名目も雲散霧消化している。この巨大事業に河原湯の人々は半世紀余にわたって“蛇の生殺し”のごとく振り回されてきた。
「あれが私の卒業した小学校。すっかり変わったけど、いま23人の子供が通っています」。彼女が突然車中から指さした。校庭に咲く白モクレンが春の訪れを感じさせてくれた。この新しい“まち”に新しいコミュニティが再び生まれるのだろうか。
川原湯温泉のその後の記事はしばらく見たことがなかったので、現在の様子を知らせる記事を興味深く読みました。ありがとうございました。