【福島・沖縄からの通信】

佐藤健太:飯舘村に復興の日はくるのか

 飯舘村商工会青年部部長の佐藤健太さん(34)は、3・11東京電力福島第1原発事故に際し、放射能汚染にいち早く警鐘を鳴らしました。放射能汚染がつづく飯舘村に村民を戻そうとする帰村宣言には反対の立場ですが、帰村する高齢者の働く場をつくりたいとも考えています。〈文責・星英雄〉

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 私はこの春、「国際NGOピースボート」のコーディネートでタヒチのパペーテ、マーシャル諸島のマジュロを訪れました。そこで、フランス軍の特殊部隊でダイバーとして核弾頭を扱っていたタヒチの男性、アメリカの核実験により放射性物質のゴミ箱となってしまったマーシャル諸島エニウェトク環礁の村長の奥様、マーシャル諸島の初代大統領の末裔である20代の若い男性、広島の被爆者、長崎の被曝2世の面々と乗り合わせ、水爆実験や原爆の実態と福島での原発事故の状況を共有することができました。

 国や原爆・水爆、原発事故など表向きは違うように見えるが、環境への影響、避難による文化の喪失、賠償による分断、人権の抑圧、放射線の影響など、様々な共通点も見えてきました。そのまま横浜に帰港し、飯舘村や浪江町、富岡町などを一緒に視察しました。

 核弾頭を扱っていた男性は当時、国の安全保障の為に責任ある仕事だと信じて働いていたが、健康を害し、医者に「放射線の影響は次の代にも影響する」との事実を伝えられ軍を辞めました。マーシャル諸島は米国の水爆実験で放射能に汚染され、住民は避難という強制移住で、生まれ育った島を離れなければなりませんでした。水爆実験では、近隣の島では実験の予告もなく被害を受けてから住民は避難させられ研究材料とされました。

佐藤健太さん(右から3人目)とタヒチ、マーシャル諸島の人々、ピースボート・スタッフ=飯舘村で

佐藤健太さん(右から3人目)とタヒチ、マーシャル諸島の人々、ピースボート・スタッフ=飯舘村で〈写真提供:佐藤健太〉


 
 住民たちは元の自分たちの島に戻りたいと思っているが、放射能汚染で戻れない。賠償もわずかはありますが、それによる分断もあります。

 私たちは約3週間ほど一緒でした。彼らの話をきいて、水爆実験も原発事故も、住民の被害は共通していると思いました。彼らも原発事故の被害を知って、よく似ていることに驚いていました。お互い、核の被害をこうむった者として、思いを共有できたと思います。

 飯舘村に放射能が降ったことを知った時から、この村の先のことを考えずっと不安です。帰村とは、復興とは何だろう。農業も畜産も、原発事故前のように営めるのだろうか。

 飯舘村は原発事故の後しばらくの間、避難するかしないか、混乱しました。3月15日には役場前で毎時44・7マイクロシーベルトもの高い放射線量(村の南側の地区では毎時200マイクロシーベルトを超えていたとも推測されている)が測定されていたのに、国や村は放射能汚染が健康に及ぼす被害を軽視して「ただちに避難する必要はない」という態度でした。私の周りには「国が大丈夫だと言っているから大丈夫だろう」という人たちがたくさんいました。

 私は福島第1原発が爆発したのをテレビでみて、現実なのかとの戸惑いと共に「やばい」と思いました。中学生のときに読んだ『はだしのゲン』を思い出したのです。それからいろいろ情報を仕入れて、「逃げないと大変なことになる」と強く思いました。当時、飯舘村に放射能汚染の調査にきていた京都大学の今中哲二先生にも直接話をきいて、村の放射能汚染は深刻だと確信しました。

 なんとかしなければの思いで、若い仲間や先輩たちと「愛する飯舘を還せプロジェクト 負げねど飯舘!!」を立ち上げて活動をはじめました。

 菅野典雄村長は避難することには反対だったので、住民と行政の間には溝ができました。村長は村民を村に残したまま原発被害から立ち直った村になることで、飯舘村をモデルケースにしたいという考えだったのです。村での説明会でも、村長は村民の側ではなく、東電や政府関係機関と同じテーブルに着き、彼らに代わって村長が村民の疑問に答えるという姿勢でした。

 県や村が連れてきた学者たちは、高い放射線量に不安がいっぱいの村民に「安全」をふりまきました。村が主催した講演会で、ある学者が「注意事項を守れば健康に害なく村で生活していけます」と話したことが記録に残されています。村民の多くが、村長・行政に裏切られたという思いを持っています。

タヒチ・パペーテの港の近くにある核被害を受けた島々を表現するモニュメント

タヒチ・パペーテの港の近くにある核被害を受けた島々を表現するモニュメント〈写真提供:佐藤健太〉

 村は来年3月に帰村宣言をして、避難している村民を帰村させようとしています。しかし、住民と村長・行政との溝が埋まらないまま今日まで来てしまいました。問題は何も片付いていないのです。

 除染ではぎ取った農地の土を埋め戻すために山を削り、鳥獣保護区をつぶす除染にどれほどの意味があるのか。ほんとうに安全な生活ができるようになるのだろうか。

 除染といっても、農地や宅地だけで、山はほぼ手付かず(農地、宅地の境から20メートルまでの除染)です。里山除染については未だ未定。飯舘村の75%は山林です。このままだと除染が完了しましたと言っても村内面積の50%の森林は未除染になります。これは、里山で生活をしてきた私たちには致命的な事です。

 さらに1度除染して放射線量がさがっても時間が経つにつれて、放射性物質が土や木の葉などと共に移動し再汚染する可能性もあり、その繰り返しです。

 そして村内のいたるところに積み重なった黒いフレコンバックは、現在村内だけでも160万袋にも及んでいますが、今後の行き先も未だに不明です。

 飯舘村では、キノコを採ったり山菜を採ったり、山の中を走り回ったりの生活の中で、子どもも育ってきたのです。それができなければ飯舘村で暮らす意味がない。メリットがないのです。若い世代が村に戻りたくないと考えるのは当たり前ではないでしょうか。

 放射線被害の心配は解決されず、住民との議論もほぼないままに、避難指示解除が決まっていく。2020年東京オリンピックまでに避難指示区域をなくし、原発を海外に売り込みたいと考えている安倍政権に、村は追随していると思います。

 普通の日本人は年間の被ばく限度量は1ミリシーベルトまでとされているのに、安倍政権は年間20ミリシーベルト以下になれば避難指示を解除する。村も帰村を宣言する。納得できない。またどこかで原発事故が起きたとき、20ミリシーベルトが基準にされるのだろうか。福島のせいで、飯舘村のせいで国際基準の1ミリシーベルトが20ミリシーベルトに引き上げられたと言われ兼ねません。

 原発事故が起きるまで、飯舘村は最先端のことをやっていたと思います。小さな貧しい村だからこそ住民みんなが寄り添って、知恵を出し、「までいな村」をつくってきました。

 しかし過疎の問題は避けられないと思っていました。じわーっと進むはずでしたが、原発事故で30年、時代が1度に進むような事が起きると思います。放射能汚染がなければ、農作物をつくったり、販売ルートを築いたり、いろんな対策を考え、対応できるかもしれません。しかし、放射能の問題は難しい。村の将来は原発に奪われたようにも思います。

 その一方で、帰村する人たちも少数ですがいます。帰村後の村でなにかできないか。農家さんも村に戻って作物を作っても売れなければ飯が食えないことなる。農地が農地としての機能を失った時どうするのか。60歳以上の人が働ける場所が必要です。私は村の中の公共施設や再エネ発電施設の草刈りや、帰村しない方などの空き家管理や、環境整備の会社を作りたいと考えてもいます。しかし、これがベストの判断かどうかよくわかりません。

 自分には飯舘村を次の世代につなぎたいという思いもあります。しかし、飯舘村というコミュニティは原発事故で崩壊したのではないかとも思います。この5年、自分の中で日々葛藤し続けています。

 原発事故前のような飯舘村にもどるだろうか。本当に復興したと言える日が来るのだろうか。

 原発事故はエネルギー政策を隠れ蓑に経済政策を進めて肥えてきた日本の貨幣経済の行き着いた先だったのかもしれない。黙って働いても、様々な税金や基本料金を吸い上げられ残ったお金で厳しい生活を強いられる国民、大手しか儲からない仕組みの中で、儲かるのは特定の方だけ、いつしか国民は言葉を失い国内植民地化されてしまっているようにさえ感じます。

 こんな社会を次の代に残していって良いのだろうか。私たちは、言葉と貨幣を含めての力をもう一度手元に取り戻さなければならないだろう。

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