【福島・沖縄からの通信】

高橋みほり:子どもたちの将来を考えると帰村できません

 夫と2人の子ども、一家4人が放射能汚染で飯舘村を離れて5年。いま、松川第1仮設住宅内の村の直売所「なごみ」の副店長として働く高橋みほり(34)さんにききました。〈文責・星英雄〉

◇    ◇

 いま、仕事やその他の用で3カ月に1回くらい村に帰りますが、飯舘村は行くたびに風景が変わっています。避難して2~3年までは、こういう山並みだったなと昔の飯舘村を思い出し、感慨に浸ったこともあります。

 いまはいきなり、野積みのフレコンバッグ(除染で削り取った土や草木などを詰めた袋)に直面するし、山も削られています。昔の記憶で車を走らせていくと、家に通じる道が崩れていてびっくりしたり。自分の家には寄りません。お墓参りにはいきますけど。

 飯舘村は春夏秋冬、自然が豊かでした。春先に霜が降りた風景もすごくきれい。秋の赤い落ち葉もきれい。原発事故の前は、本を配達するとき、わざわざそこを通って配達したほどです。夜は本当にあたりは真っ暗、星空がきれいです。村はいまも恋しい。

 私は村営の書店「ほんの森いいたて」に臨時職員として勤めていました。「ほんの森いいたて」には、村の子どもたちの身近に本を置いておきたい、という思いが込められています。学校の図書館に本を届けるのも仕事の1つでした。

 地震が起きたのは確定申告の日でした。隣にある村役場の職員は窓を乗り越えて外に飛び出していました。「ほんの森いいたて」の本は全部本棚から床に落ちました。鉄製の本棚はへっこんで、店内はすごいことになりました。片づけ作業に追われました。

 両親、農協職員の夫、子供2人、私の6人家族でした。誰も放射能の知識はありませんでしたが、マスクして家の窓には目張りをしました。私や子どもたちは外に出ず、母だけ行政区の集まりにいって、そこで情報をきいて、避難の意向を固めていったのです。DSC00325 ts

 結局、飯舘村は全村避難になり、私は職を失って、いまは村営の直売所「なごみ」の副店長として働いています。

 帰村宣言はまだ早いと思います。除染は来年3月までに終わる約束もない。戻りたいという人の家の建設もできていない。農業はむつかしいように思います。

 帰村宣言って、根拠はないと思います。山がある限り、放射線量は下がらないでしょう。山を丸裸にもできないでしょう。若い世代が村に戻らないということを、村長には考えてほしい。村民がいるから村長を務めていられるはずです。帰村の選択は間違っていると思います。

 国もひどいですね。熊本の地震で川内原発を止めなくていいんですか。川内原発に事故が起きて飯舘村のようになっても知らないよって、いいたくなります。原発再稼働、原発輸出、汚染水漏れは続いています。ひどい放射能汚染なのに避難を解除して賠償は打ち切り。このありさまを見れば、日本がどれだけひどい国か、わかると思います。

 避難してからあっという間に時は過ぎましたが、5年というのは長いですね。昔の飯舘村のことを忘れるほどです。当時7歳と4歳だった娘と息子は、いま12歳と9歳になりました。子どもたちは飯舘村に戻りたいといいません。こっち(福島市)にも飯舘の子どもたちがいるし、楽しみがいっぱいあるから。

 私たちも、子どもたちのことを考えると、いまは飯舘村には戻るつもりはありません。私が70歳くらいになると考えるかもしれませんが。私の家は山の中です。いま戻っても、健康な生活は営めないと思います。

 幸いなことに、子どもたちは新しい環境にうまく対応してくれたように思います。転入した学校になじめなかったり、いじめられたりすることもなく成長しました。どの幼稚園も小学校も温かく迎えてくれて感謝しています。

 娘は小学2年で、転入しました。飯舘だけでなく浪江やそれ以外の被災地から転入する子どもたちがたくさんいたことは、娘にはよかったと思います。

 息子は村立の幼稚園から福島市の公立の幼稚園に移りました。その2年後に、2人はまた別の小学校に移りました。

 新しい学校に行って、勉強面で戸惑うことも、みなと同じ教材がなく、恥ずかしい思いをしたと言うこともありません。福島の学校ではみんなと同じでないといけないということはないみたいで、たとえば、お習字セットも、生徒は各人がそれぞれにいろんなものを使っていて、これでないとだめということはないんです。

 上の娘は今年、中学生になりました。中学に行って、1回目の転入の小学校のお友達に再会しました。2回目の小学校のお友達とは一緒に中学校に上がっているので、逆に、顔が広くなったというか、たくさんお友達ができたと思います。

 ただ、”震災ロス”というか、”原発事故ロス”というか、ありました。原発事故直後、小学校は休みでした。川俣町に間借りして幼稚園、小学校が再開したのですが、あの頃は勉強に集中できなかったようです。うちの娘はそのときに教えられたことが弱いように思います。とくに、算数の九九ですね。基礎だから、響いているみたい。でも国語とかは大丈夫です。他の子どもたちにも影響はあると思います。

 いま心配なのは、帰村宣言で区域外就学がどうなるか、です。私たちの住所は飯舘村にありますが、震災で避難しているから特別に区域外就学が認められ、子どもたちは福島市の学校に通っています。来年帰村宣言が出たら、どうなるのでしょうか。

 飯舘村は大丈夫なんだから、飯舘に住所があるんだから、飯舘の学校に通ってくださいって。福島市の教育委員会から拒否されることになるかもしれません。

 そうなったら、住所を飯舘村から福島市に移すつもりです。私たちは飯舘の学校に子供たちを通わせようとは思いません。そのとき、本当に飯舘村を捨てるみたいな気持ちになるかもしれません。それくらいのことをしてでも、子どもたちを福島の学校に通わせ続けたいのです。区域外就学を認めないと言われたら、住所を移す覚悟はできています。

 村は、子どもたちは「みんな飯舘っ子だよ」とか「村の子どもたちは平等に扱うよ」と言っているのに、実際は違うんです。

 飯舘村の学校に通っている家庭には、給食費や修学旅行費の積み立て、遠足の費用は免除されているし、制服とかジャージまでも買ってもらえるという。私は子どもの学費を支払うのは当たり前のことと思っていますが、不公平感は残ります。こんなことで、帰村を釣ろうとしているように見えますね。

 「村に戻る人も戻らない人も、1人1人の復興をめざす」といっていたのに、戻らない人を援助することはなにかやっているんですか。

 原発事故で何もかも奪われ、失ったのは事実ですが、それだけを思って今後の人生を生きていくわけにはいきません。

 うちの子供たちは精神的に強くなったかもしれないと思うんです。
新しい環境に飛び込んでいって、お友達をたくさんつくって・・・。子どもって、順応性が高いのだと思います。それがわずかなメリットといえばメリットですね。失ったものばかりではない、得たものもあった、と思いたい。

 子どもたちにとってこれからの人生は長い。過去にとらわれずに、自分の故郷を自分で選び力強く生きてほしい。

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