【福島・沖縄からの通信】

菅野哲:飯舘村は原発事故によって滅失させられた

 菅野哲さん(68)は「原発被害糾弾 飯舘村民救済申立団」副団長を務めています。国も東京電力も原発事故の責任をとろうとしないので、飯舘村民の半数、3000人が原子力損害賠償紛争解決センターに裁判外紛争解決手続き(ADR)を申し立てました。全村避難をしている飯舘村は来年3月に「帰村宣言」する方針です。菅野さんにいまの思いをききました。<文責・星英雄>

◇    ◇

 飯舘村は来年3月に帰村宣言する予定ですが、とりあえず1割ぐらいの村民が戻るだろうね。私は妻と90歳のおふくろと一緒に福島市で暮らし、もくもくと百姓をやっていますが、いずれは戻りたいという思いはあります。

 若い人は村を見切っているけど、私らの年代、50代以上の人たちはやっぱり、まだ未練はあるわけです。自分が生まれ育って、生きてきたところ。割り切れといっても割り切れない。土地も家もある。その気持ちは転勤族の方にはわからないでしょうが。

 飯舘村は戦後の開拓で作り上げてきた村です。それ以前は、田んぼ、養蚕、細々と野菜をつくって、暮らしをつなぐだけの村でした。そこに、戦後の食糧難で、開拓者が入ってきました。私の親もそうですが、3分の1が開拓者。東電の原発事故前まで、65年かけてつくりあげてきた村です。

 厳しいからこそ、人々はお互いに協力し合ってやってきました。菅野典雄村長は自分がやったような言い方をしていますが、村民は、自分たちの力で地域をつくってきたという思いがあるから、未練があるんです。ただ、若者はそこまでの気持ち、思いはありません。これから新しい人生を築いていく、自分たちの子どもの将来を考えて、別の土地でやり直そうと割り切っていると思います。IMG_9854

 ただ、村に戻りたいという多くの人は、村の外では暮らせないから戻るんです。そんな状況をつくってしまった政治こそ問われるべきではないでしょうか。

 飯舘村が畜産とか農業とかで栄えるような、そんな昔の飯舘村に戻るようなことは即には難しいと思います。セシウム137の半減期は30年。60年経って4分の1に減るだけです。そういうスパンで考えないとだめだと思います。

 飯舘村は当初、2年後に帰村するという「までいな希望プラン」を作ったけど、破たんしました。山林の除染もできないし、ホットスポットもある。村に戻って暮らせというなら、せめて普通の国民と同じ線量限度の、年間1ミリシーベルトにしてほしい。未練があっても、現状では村に戻って暮せそうもありません。

 原発事故は東電と国の責任です。しっかり国が整備するから、それまで安全なところで暮らしてくださいと、なぜいえないのですか。みなさんに償いはしますから、安全なところで暮らしてくださいというのが本来の政治でしょう。

 飯舘村民や福島県民に対し、政治は行われていません。道路とか水道とかインフラの整備をするだけで、被災者の生活再建はなにもやっていないに等しい。

 一番大事なのは被災者個人が自立することです。被災者の1人ひとりがこれから先、安心して暮らせるような生活の自立です。それを支援するのが本来の政治・行政ではありませんか。

 地方自治体で大事なのは「枠組み」ではなく、住民なんです。地方自治法にも、地方自治体は「住民の福祉の増進」のためにあると書かれています。飯舘村は村民の福祉を向上させるのが責務ではないですか。なのに、安倍政権と同じように、帰村をごり押ししようとしていることは本末転倒です。菅野村長は、飯舘村という「城」を守ろうとして、村民を守らない。間違っていると思います。

 国の原発事故への対応は、矛盾だらけです。福島市に避難していても、私らは賠償金を受けています。しかし、福島市の放射線量の高いところから子どもを抱え、避難した人たちに賠償はありません。子どもを育てられる環境でないから避難したのに。国は差別と分断をもたらしました。

 福島市の渡利は放射線量が高いから、避難した人たちがいます。その空いたところに飯舘村の人たちが避難したのです。あのころ私も避難先を探していて、渡利に行って線量計で計ったら、5マイクロシーベルト/時もあって、びっくりしました。

 実は福島市の線量は高いんです。それでも、普通に暮らしています。そうしないと福島がつぶれてしまう。それをいいことに、国も東電も知らん顔です。本当は被害は広く、深刻です。これが原発事故の実態ですよ。

 普通の国民の追加被ばく量は、年間1ミリシーベルトが上限ですが、福島県は20ミリシーベルトでもいいというのが国のやり方です。福島県人は日本国民ではないのか、と言いたい。

飯舘村内には、除染で削り取った土や草木を詰めたフレコンバッグがあちこちに野積みされている。まるで、飯舘村がフレコンバッグの捨て場のようだ(2016年4月19日撮影)

飯舘村内には、除染で削り取った土や草木を詰めたフレコンバッグがあちこちに野積みされている。まるで、飯舘村がフレコンバッグの捨て場のようだ(2016年4月19日撮影)

 川内原発は怖い。止めてほしい。南海トラフ地震が発生したらどうするんですか。日本はパニックになると思います。

 福島の原発事故で国も困ったはずなのに、いまだに原発を止めようとしません。こういう政治姿勢は世界中をみても、他の国にはないと思います。いつまで国民は犠牲にされなければならないのか。

 2014年11月、村民の半数がADR(裁判外紛争解決手続き)を申し立てました。原発事故から3年半以上待ちましたが、加害企業の東電も国も謝罪しない、被害者のためになにもしません。

 ADRの申し立てはいまの政治・行政に反発することですから、村民の半数がまとまらないと意味がない。村民の意志が醸成されるまで待った、ということでもあります。

 飯舘村は、原発事故で滅失させられたのです。東電も国も、すべてを滅失させた責任を認めて、謝罪してほしい。それがADRで求めていることの第1です。財物賠償は当たり前。なんとしても生活基盤を滅失させた責任を問いたいし、それに対する償いをさせたい。

 こんな被害をうけて黙っていられますか。私らは、すべてを奪われたのです。その悔しさは忘れることはできません。謝罪し、償ってほしい。

 気づいていない人がいっぱいいますが、飯舘村の村民はただ単に場所を追われた、あるいは離れざるをえなかったということではありません。飯舘村のすべての住民の生活基盤が滅失させられたのです。ところが東電や国は、村民の生活基盤を滅失させたとは思っていません。国は除染したからいいべ、と考えているようですがそうさせてはなりません。

 若い人も生活基盤を失い、新たなところで生活基盤をつくらざるを得ない状況になってしまいました。必ずしも人生は飯舘村でなくていい。日本は広い。どこででも、前と同じような共同体がつくれればいい。

 悲しいのは自分がつくってきたここのコミュニティを去らなければならない悔しさ、捨てなければならない悔しさです。

 原発事故がなかったら、私らも平穏に暮らせていたんです。当たり前の生活ができたんです。日本の国土を守っている農山村地帯は本当は一番大事なところです。飯舘村もそうだと思います。国民は福島に目を向けてほしい。日本の国のこと、将来のこと、もっと目をむけてほしい。

 沖縄は70年間闘ってきていますが、福島はまだ5年です。しかし、理解をしてもらうまで時間はかかっても、闘って、伝えていかなければならない。原発事故による飯舘村・福島のこういう状況は、本来、歴史の中にあってはならないのです。原発事故被災者は困難な状況下で闘っています。私らのADRの闘いも原発事故を次の時代に伝えていく歩みの1つでありたいと思っています。

菅野哲:飯舘村は原発事故によって滅失させられた” への1件のコメント

  1.  今年の2月に、川俣町山木屋地区を視察しました。(農業もそうですが、国策の犠牲になっている典型の一つとして、沖縄もですが。)
     その折、母ちゃんの力・プロジェクト協議会長の渡邊とみ子さんのお話を伺い、夜の交流会で私は「頑張り過ぎでは・・・」と率直に感想を述べさせてもらいました。また、二本松市東和地区のゆうきの里東和の道の駅を見学し、武藤一夫理事長のお話をお聞きしても同じ思いがしました。事故の責任を求めることと、「被ばく・放射能」リスクの下でも生きていこうとする人々のいること。私は、菅野副団長の思いに近く、放射能のリスクをなくさせることが何より優先すべきと思うが、頑張っている人々いることに「頑張り過ぎ」というだけでいいのだろうかとも考えてしまう。どうしたら、元の暮らし、生業を取り戻したいという両者の心がしっかりと結びつくのだろうか。それにしても、人が生きていく上で、原発の罪は大きい。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)