飯舘村は来年3月、帰村宣言をして避難中の村民に帰村を促す。しかし、村民が帰村できるほど、原発事故被害は薄れたのか、村は回復したのか。帰村は村民に再び被ばくを強いることになるのではないか。原発事故から5年半、飯舘村の現状を伝えたい。
9月30日、久しぶりに訪れた飯舘村の秋は、ススキと雑草が生い茂っていた。その中を、工事用の車両がひっきりなしに往来する。村当局は帰村を急ぎ、除染関連事業などを急ピッチで進めている。そして、放射能汚染物が詰め込まれた山のようなフレコンバッグが平地を占拠している。他の原発事故被災地にも、日本全国どこにもない、異様な光景だ。美しい飯舘村はどこへいったのか。
飯舘村民も日本国民だ
役場近くの飯舘中学校に行ってみた。村長が帰村宣言に合わせて学校を再開しようとして父母らの強い反対にあい、開校を1年延期したいわくつきの学校だ。
除染作業が進行中だった。中学校前のモニタリングポストは0.283マイクロシーベルト/時。門から玄関につながる道は、アスファルトがはがされ、敷き詰められた小砂利がむき出しになっていた。ところが、線量を測定してびっくりした。小砂利の表面は0.79マイクロシーベルト/時。放射能は、アスファルトをかいくぐって、その下の小砂利を汚染している。
「ここは立ち入り禁止区域。飯舘村か環境省の許可がないとだめだ」と工事関係者4人がやってきて、追い出されてしまった。この高濃度の放射能汚染の環境に、子どもたちを連れ戻せと村長はいうのか。
原子力基本法やその他の法律に基づいて、国民の被ばく限度は「1年間につき1ミリシーベルト」(0.23マイクロシーベルト/時)と定められている。安倍政権の「20ミリシーベルト」や菅野村長がいう「5ミリシーベルト」は、そもそも被ばく限度をはるかに超え、再び村民に被ばくを強いることにほかならない。1ミリシーベルトについて、当時の丸川環境相が「科学的根拠はない」と発言し、結局撤回した。「われわれは日本国民扱いされていない」「福島差別だ」と、村民が怒るのは当然ではないか。
村内の線量を測定してみて、菅野村長の公約「年間5ミリシーベルト」(0.99マイクロシーベルト/時)さえも上回る放射能汚染の実態があちこちにあった。モニタリングポストの数値が飯舘村の現状を反映していないこと、そして、菅野村長にとっては自身の公約を守るつもりがないことも明らかになった。
所久保庚申像から比曽へ向かう山道に入ってすぐの道の端は1.99マイクロシーベルト/時。比曽字比曽のモニタリングポストは0.90マイクロシーベルト/時だが、その下の草むらは2.15マイクロシーベルト/時。
閉鎖された「帰還困難区域」長泥地域の手前の比曽のモニタリングポストは2.088マイクロシーベルト/時。その道路わきの草地の上を測ると3.14マイクロシーベルト/時もあった。
蕨平字木戸のモニタリングポストは0.803マイクロシーベルト/時を示している。このあたりの汚染はひどい。モニタリングポストのすぐそばの草地で、3・81マイクロシーベルト/時を記録した。
蕨平字菅沼のモニタリングポストは1.26マイクロシーベルト/時。山林に5メートルほど踏み入って測ってみた。針がどんどん振れて3.11マイクロシーベルト/時。気持ち悪いので、それ以上は踏み込まなかった。
村の75%を占める森林に、さらに踏み込んで測定すれば汚染はどれほどのものになるのか。子どもは草や土に触れ、山野を走り回って育つことを思えば、地面や草地、山林の線量が高くては暮らせないのも当然ではないか。
飯舘村はフレコンバッグに占拠されている。このことも強く印象に残った。村のいたるところにフレコンバッグがある。その数220万7000袋(9月30日現在=環境省)。
いたるところにある、フレコンバッグの山の一部を写真でみてほしい。
「蕨平自然公園」のなかの大雷神社の入口もまた、フレコンバッグの置き場になっていた。
フレコンバッグは、はぎとった土壌、草木、あるいは家の周りの不用になったさまざまな残置物が入っている。フレコンバッグをシートで覆って、放射能が外に漏れないと村の担当者は言うが、実際に役場近くで測定すると空間線量は高い数値を示した。0.23マイクロシーベルト/時(年間1ミリシーベルト)をはるかにオーバーする0.75マイクロシーベルト/時を記録した。フレコンバッグを土やシートで覆っても、このありさまなのだ。
村役場の担当者はいつまでに撤去するか「不確定」という。むろん、菅野村長は言明しない。
村役場の近くでは、山林を削る作業がつづいていた。削り取った土を篩(ふるい)にかけて砂状にし、除染で良質の土をはぎ取った田んぼの表面を覆う。工事関係者は「元は、あそこに見える緑よりも高かった山をここまで削って、砂を造った」と話す。実は、この山林はいまでも鳥獣保護区域に指定されている。その保護区域の山林を跡形もなく削り、砂にして、除染作業は進められているのだ。
原発事故が人生を狂わせた
避難中の飯舘村の人々が暮らす松川第1仮設住宅を訪れた。原発事故以前は、葉タバコと林業で生計を立ててきた鈴木秀治さん(79)に話を聞いた。「原発は恐ろしい。人生を狂わせられた」と鈴木さんは話し始めた。
「春は山菜、夏は山菜採りと魚釣り、秋はキノコ採り。自然の楽しみが心を癒してくれ、心を明るくしてくれた。そんな自然を楽しむことはもうできない」
鈴木さんは帰村をあきらめて、息子夫婦と村外で暮らすという。
鈴木さんの話を要約すると、次のようになる。
──高齢者は帰っても、後継者はすぐには帰らない。高齢者は孤独だ。村に帰っても、自分の孫や子や、多くの村民は帰らない。夫婦だけ、あるいは1人だけの寂しい暮らしを余儀なくされる。
──高齢者が秒読みで車の運転ができなくなるのは明らかだ。あっと言う間に衰える。そうなれば、通院も、買物も、日常の用足しができなくなる。つまり生活できなくなるということだ。
──周りに人家がなく、夜は怖い。何よりも話し相手がいなくなる。狭く、粗末な仮設住宅でも、気晴らしができ、心を通わせる相手が存在した。高齢者にとって、話し相手がいなくなることは致命的だ。
──飯舘に戻って農業を再開したいという人もいるが、生活が成り立つのだろうか。花卉(かき)栽培に取り組みたいという人も数人程度いる。シイタケの原木など山仕事は、75%を占める山林の除染が手つかずだから、全然だめだ。何十年も待たないといけないだろう。
仮設住宅の集会所前にいた男たち5、6人は「帰村宣言? 姥捨て山だ」と笑い飛ばした。帰村宣言で帰村する人たちは高齢者を軸に1~2割と言われている。そんな村は「姥捨て山だ」というわけだ。
飯舘村の平均所得は福島県で最低だった。飯舘村の人々を支えていたのが山林など自然環境だ。山で採れる山菜やキノコなどが食生活の助けになった。「山仕事」を生業にしていた人たちもいた。農業も、畜産業もあった。しかし、かつて自然の恵みがあって成り立っていた村民の生活が、これからは成り立たない。
飯舘村民の切り捨てを許すな
いま東京や全国各地で開かれている脱原発集会のメインテーマは「福島の切り捨てを許すな」である。9月の東京集会では、飯舘村の長谷川健一さんがマイクを握った。「来年3月31日、国は避難解除をするが、なんの補償もない。帰る人は自己責任で帰りなさいというが、我々は安全に帰ることを求めている」
安倍政権が避難指示解除をすれば、東京電力は原発事故被害者に対する賠償を打ち切る。加害者の政府と東京電力が、被害者を切り捨てる。飯舘村の帰村宣言はその政府・東京電力の被害者切り捨てに追随することにほかならない。
損害賠償や除染などの費用は東京電力が負担するというのは表向きで、はじめから、原子力損害賠償・廃炉等支援機構が負担する仕組みになっている。福島第1原発の廃炉費用は10兆円以上と言われるが、それも含め、福島第1原発事故のすべての費用は、結局、電気料金か税金の形で、国民が負担させられる。
政府・東京電力がぐるになって加害者の東京電力を助け、原発事故被害者を切り捨てる構図だ。政府も東京電力もつねに原発事故の被害を小さく見せようとしてきた。そしていま、帰村すなわち「もう福島第1原発事故の被害者はいない」ことにしたいのだ。
安倍首相は9月26日、臨時国会の所信表明演説を東京オリンピックからはじめた。政府も東京電力もいまだに、福島第1原発事故の加害責任を認めない。凍土壁も役に立たず、いまだ溶け落ちた核燃料(デブリ)の所在さえわからず、収束にはほど遠いというのに。
村民の思いがわからない現村長
飯舘村の帰村宣言に対する村民の評判は最低だ。原発の恩恵とは無縁だった6000人の飯舘村が、全村避難を強いられて5年半。菅野村長が来年3月、帰還困難区域の長泥を除く全地域に帰村宣言をしても、8割の村民は帰村しないという現実に、あまり物言わぬ村民の雄弁な意志表示があると思う。原発事故とその被害について、飯舘村民の多くと、菅野村長の考えは明らかに違うのだ。
私には忘れることのできない衝撃の記憶がある。前回選挙で再選された直後の2012年10月12日、東京のテレビが菅野村長のインタビューを放映した。女性記者が「早く逃げていれば(原発被害の)リスクは防げたのでは」と質問したのに対し、菅野村長は「因果関係はどこで証明されますか」と居直ったのだ。(テレビ朝日系「Jチャンネル」)
「かえせ飯舘村」という資料集がある。飯舘村3000人の村民が東京電力を相手に損害賠償の増額を求め、原子力損害賠償紛争解決センターに和解仲介を申し立てた、その資料集だ。そこにはこう書かれている。「飯舘村全域が計画的避難区域に指定されたのは2011年4月22日であり、全村避難が完了するのは7月下旬である」「東京電力、国、県そして村による」「数々の誤った対応により、早期避難の機会を奪われ、結果的に福島県内の自治体で最も高い集合線量の大量被ばくを受けることになった」
村の対応の誤りにより逃げ遅れたことは「トラウマになっている」と村民の1人は振り返った。しかし、村民の苦難の生活がどのように始まったのか、無責任にも菅野村長はまるで意に介さない。
菅野村長の飯舘村行政のかじ取りの基本は、政府に従うからその分、飯舘村に特別なご配慮を、だった。「政府を悩ませる脱原発問題では煩わせないことを約束する」から、飯舘村を「特別扱い」してほしいと政府に求めたことを自著で明かしている。(菅野典雄著『美しい村に放射能が降った』)。村長として「政府との交渉力が必要だ」とも公言してきた。しかし、政府に迎合して村民のために得たものが何かあったのだろうか。
昨年、当時の中井田総務課長に東京から電話で聞いてみた。「政府にすり寄って、何か得たものはあるのですか」。中井田総務課長は「なに1つ、ありません」と答えたのである。
村民あっての飯舘村である。村民が力を合わせて「美しい村」をつくりあげてきたのではなかったか。村長が依拠すべきは、政府権力ではなく、村民ではないのか。村民の声に耳を傾けない村長に批判は厳しい。「村長は国のいうことをそのままやる」、「村長の独断」、「われわれの要望はなにもきいてもらえない」「帰村しない村民には村の支援はなにもない」・・・。村民の批判を、菅野村長はどう受け止めるのか。
かつて飯舘村は「日本でもっとも美しい村」の1つに数えられていた。その美しさは、村民の心のあり方にこそあるといわれた。
東京電力福島第1原発事故は、その共同体を破壊した。かつての飯舘村、そこで生まれ、育ち、生活し、つくりあげてきた家族と地域の人間関係が原発事故で破壊されたのだ。そして今、多くの村民は、国や村に見捨てられた棄民に等しい扱いを受けているといって過言ではない。これこそが、東京電力福島第1原発事故の実像なのだ。
村民のこの5年半の辛く切ない、悔しい思い。帰村する人も帰村しない人も、自立できる生活の再建をこそ望んでいる。その願いにこたえるためには、原発事故、政府・東京電力にきちんと向き合うしかない。
筆者と飯館村を訪れたときのことを思い出しました。私も今春、飯館村に行きびっくりしました。村中をダンプ、車が走り回っている。政府が村長が村民の「帰還」を煽り、その非科学的な「安全」宣言を「証明」するために除染を急ピッチに進めているのだ。帰りたい人も、帰れない人もどちらにも寄り添った施策、方途を真剣に検討し、実施することが求められている。
私たちが気にしている事を調査して記事にして頂き感謝しています。他の人にも読んでもらってます。