【連帯・社会像】

星英雄:日本社会の変革をめざして 「韓国東学農民軍の歴史を訪ねる旅」に参加して㊦

10月20日(木)

 今日は、バスの出発がいつもより30分早い午前8:00。ホテルの前は海なので、朝食後急いで散歩したが、残念なことに霧がかかっていた。眺望悪し。

 木浦から珍島へはバスで1時間ほどという。車中、中塚明名誉教授の解説。

──1995年7月、北海道大学で人間の頭骨6体が発見された。それには1枚の書付があり、井上勝生・現北海道大学名誉教授らの調査・研究で、いろんなことがわかってきた。それまでは珍島のことはわからなかったが、珍島で日本軍が東学農民軍数百人を虐殺した・・・。

 午前9:00過ぎ。珍島での城壁見学には、韓国の複数のメディアがビデオカメラを回していた。このあたりで、虐殺された人骨が発見されたらしい。朴教授は「苔のある石垣は昔のもの、苔のないものは復元された石垣」と説明した。シンポジウムに参加予定の井上勝生名誉教授の姿も見えた。

城壁の説明をする朴孟洙さん(右端)

城壁の説明をする朴孟洙さん(右端)

 

井上勝生さん(右端)、中塚明さん(中央)

井上勝生さん(右端)、中塚明さん(中央)

 この後、「シンポジウム 東学農民革命国際学術大会」に参加した。

 中塚明・奈良女子大学名誉教授が「戦争の海から平和の海へ」と題して最初に基調報告した。「珍島は東学農民軍が日本軍の殲滅作戦で無念の涙をのんだところです。いま珍島は、近代日本がつくりあげてきた歴史の偽造を問い、本来の歴史の姿をとりもどし、日韓両国市民の連帯の上に、全世界の普遍的な人類史的な歴史の見方をうちたてる、そうした学術的営みの舞台として私たちの前にあります」と結んだ。

 「甲午農民戦争の世界史的位相」と題して趙景達・千葉大学教授が続いた。東学農民戦争は「東アジアでは韓国だけにみられる民衆運動であり、必然的に反帝国主義闘争という民族運動の性格を帯びた」と指摘。同時に「日本側から見た場合の性格として、甲午農民戦争は植民地戦争という歴史的性格をもっていた」と強調した。

東学農民革命国際学術大会で基調報告する中塚明・奈良女子大名誉教授

東学農民革命国際学術大会で基調報告する中塚明・奈良女子大名誉教授

 

司会は日本に留学経験のある金貞禮(キム・ジョンレ)全南大学校教授がつとめた

司会は日本に留学経験のある金貞禮(キム・ジョンレ)全南大学校教授がつとめた

 

 私たち一行は午前の部だけを聴講した。午後も、日韓両国の研究者の報告と質疑が予定されている。盛況で、活発な議論を願いつつ、会場を去った。

 昼食時、朴孟洙教授が別れの挨拶をした。スケジュールの関係で、旅の最後まで一緒にいられない。これまでの熱い、人柄がにじむガイドに感謝する拍手に送られた。

 東学農民革命記念財団のパク・アヨンさんが、午後のガイド役をつとめた。

 午後、最初の訪問は東学農民革命の発祥地といわれる高敞郡茂長だ。リーダーの全琫準(チョン・ボンジュン、1855~1895)が蜂起の布告文を読み上げている茂長起包記念碑を見る。

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 次に向かったのが、古阜の無名東学農民軍慰霊塔。左手に竹やり、右手で倒れた仲間を抱きしめている。その周りを無名の農民の顔が囲む構図だ。東学農民軍に参加した99%の農民は、名前も殺された場所も明らかでないという。無名の農民たちを慰霊し顕彰する韓国の人々を思う。歴史は無名の人民大衆がつくる──。dsc04243x

 全琫準に率いられた農民が最初に蜂起したのは1894年1月。その直前、全琫準らが密かに蜂起を企てた。首謀者が誰であるかを隠すため、連判状は円形に署名した。そのことを記念して古阜に、東学革命謀議塔が建てられた。少し下方に、美しい稲田が見える。この辺りは韓国有数の穀倉地帯だ。

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 第1次蜂起で、農民軍が政府軍に大勝利した黄土峙(ファントゼ)戦跡地には、甲午東学革命記念塔がそびえ立つ。「ここは東学農民革命の聖地、民主化運動のメッカ」だ、と中塚名誉教授は言った。dsc04252x

 記念塔は軍事独裁の朴正煕大統領の時代に建てられた。「農民革命を政治的に利用する動きはつねにある」と中塚名誉教授。

 本日最後の訪問は、東学農民革命記念館。金大中大統領時代に構想されたという。写真、絵、文などで東学農民革命について語られている。

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左から全琫準、孫化中(ソン・ファチュン)、金開男(キムゲナム)

左から全琫準、孫化中(ソン・ファチュン)、金開男(キム・ゲナム)

 

農民たちは鶏カゴを用いて戦った

農民たちは鶏カゴも使って戦った

 館内のパネルの説明文を見てみる。

「東学は大衆志向的な思想に基づいて農民と深く結合して急速に広がった」「全琫準・孫化中・金開南など、変革志向的な人物がリーダーとして農民軍を導いた。彼らは・・・・絶えず社会変革の場へと導いていった」

「経済的な面では租税受取制度である三政を正そうとし、社会的な面では身分制の廃止に集中した。政治的な面では閔氏の政権の追放と貧官汚吏の除去、そして外勢追放だった」

「東学農民革命には数十万人が直接戦闘に参加し、一時加担した農民たちの数は計算できないほどに膨大な規模だった」「打倒する対象は、腐敗した守令や官吏、下役、不正な両班、地主、富豪だった」「東学農民軍は本質的に農民あるいは商民と階級的利害をともにした勢力だった」

 東学農民軍の戦いは、日本による朝鮮王宮占領を境に2つに分けられる。東学農民革命記念財団のパンフレット「人、再び天になる」は次のように記している。

「1回目の蜂起は、平等社会の建設のための反封建的抗争であり、2回目の蜂起は、日本軍をこの土地から追い出すための民族自存の外部勢力への抗争だった。平等・自由・自治の原則に基づいた新しい社会の建設を目標にした東学農民革命・・・」

10月21日(金)

 9:30、参礼東学歴史公園にやってきた。輪の中にスカートをはいた女性もいる農民群像、鍬を持つ腕などいくつもの像が配置されている。出入り自由の広い公園だ。参礼は、日本の朝鮮侵略に対抗するため、全琫準が再蜂起を計ったところだ。入り口に彫られている韓国文字を韓女史に訳してもらうと「東学農民革命参礼蜂起歴史広場」と書いてあるそうだ。

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 「ナツメ祭り」ということで、テントを張った露店が並んでいた。その先に、日本軍が駐屯した当時の建物がそのままの形で現存する。連山県の役所の門だ。

 連山での東学農民軍との戦いで戦死した日本兵が1人いる。しかし日本側の記録では、東学農民軍ではなく、清国軍との戦いで死んだことにされている。東学農民軍殲滅作戦を知られないように、歴史を改竄した。帰り道、「ナツメ祭り」の露店に寄った。

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 牛金峙は東学農民戦争の最大の激戦地である。ここで日本と朝鮮王朝の連合軍と戦って、東学農民軍は敗北した。

 この地の東学革命軍慰霊塔も、朴正煕大統領の時代に建てられた。軍事独裁政権を正当化するために利用したのだが、批判的な人々が「五・一六革命」「一〇月維新」「朴正煕」の文字を碑文から削りとったと言われる。

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 最後の宿泊地、ソウルに着いた。この後は自由行動というが、景福宮の入場締め切り時刻に間に合うかどうか、ギリギリのタイミングだった。ツアー参加の2人の女性と、ホテルからタクシーを飛ばしたが、やはり少し遅かった。ところが、日本から来た観光客ということで係が大目に見てくれたようで、中に入れてくれた。助かった。ありがとう。

 景福宮は見たかった。日清戦争は「朝鮮独立」を大義名分にしながら、実は朝鮮王宮・景福宮の占領から始められたのだ。同行の女性2人は、景福宮に詳しく、健脚だった。後をついていった。

 乾清宮の中に、明成皇后(閔妃)が寝殿にしていた坤寧閤があった。パネルには、日本語で「日本の軍部は王室を圧迫する非常事態をでっち上げるため」「乾清宮に乱入し、王妃を殺害した」とある。

 景福宮には、民族衣装に身を包んだ韓国の青年男女が大勢いた。遅く入場したのであっという間に閉鎖時刻が迫ってきて、光化門(正門)を出なければならなかった。

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明成皇后(閔妃)が寝殿にしていた坤寧閤

坤寧閤

 

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 女性たちの案内で日本大使館前に行き、慰安婦を象徴する少女像をはじめて見た。韓国の女子大生らしき2人の女性が、「番」をしていた。私は、被害女性に対する日本政府の誠実な謝罪が必要だという立場だ。謝罪には、きちんとした歴史認識が伴うはずだ。日本の朝鮮侵略・植民地支配の歴史をきちんと理解し、受け止めたい。

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 ナンタを楽しむために、繁華街・明洞のナンタ劇場に向かって歩いた。夜の7:00頃。この辺りはすでににぎわっていた。劇場前の屋台で買い込んで、腹ごしらえした。

 ナンタとは韓国語で乱打の意味だ。いまでは韓国を代表するパフォーマンスという。包丁でまな板を叩く独特のリズム。観客を引き込む派手なアクション。場内はいやがうえにも盛り上がった。韓国の若者が多かったようだ。dsc04354

 旅の最後の夜はこうして少しあわただしく、しかし、有意義に過ごすことができた。明朝は5:00起きだ。

10月22日(土)

 朝6:00にバスでホテルを出発し、仁川空港に向かう。途中、物産店でキムチを買い、韓国料理店で朝食をすませた。

仁川空港発10:10、KE703で成田空港に着いたのは定刻12:30より20分ほど遅れた。成田からローカル線を乗り継いで、自宅に着いたのは17:00に近かった。旅は無事終わった。

 中塚明名誉教授、朴孟洙教授、鎌田千夏子さん、韓末淑さん、運転手さん、皆さん、ありがとうございました。

    ◇          ◇

 来て、歩いて、見て、聞いて・・・。東学の農民たちの歴史の現場を大急ぎでほんの少し、フィールドワークした旅だった。これだけで、東学や農民たちへの理解が深まったとは思わない。しかし、貴重な体験だった。ささやかだが韓国市民とも交流できた。東学の平等思想、革命思想が記念碑や公園の形で韓国市民に受け入れられ、韓国の今日の民主化闘争に受け継がれていることも目の当たりにした。南原の人が「いい言葉で日本について話せない」と語ったことも、強く心に残った。

 そして、いま思うのは日本のことだ。日本の変革の思想は今日では「日本国憲法」といって、差支えないと思う。市民運動の高揚の中で、「闘いの武器」ともなっている。平和で、1人1人が人間として尊重される社会をめざして、日本社会の変革のために力を尽くすこと。それが韓国市民との連帯をも可能にするのだと、あらためて思った旅だった。

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