辺野古の嘉陽宗義さんが亡くなった。享年94歳だった。「嘉陽のおじぃ」と親しまれ、辺野古のシンボル的存在だった。すぐに思い出したのは安倍首相を批判したスピーチだった。2014年6月28日、安倍政権が辺野古新基地建設のための海底ボーリング調査に着手する直前、辺野古の浜で開いた反対集会でのことだった。
──われわれの税金でぜいたくに暮らしている政治家が、政治家が主体だというのは間違っている。国民が主体だ、とぼくは思う。
──安倍さん(安倍首相)はあべこべだ。
──辺野古の海(に基地を造ること)は神様が許しません。
ハリのある筋の通った嘉陽節に、指笛が鳴り、大きな拍手がわいた。
2013年から沖縄取材をはじめた私は、2度お宅にお邪魔して話をきくことができた。最初は反対集会の2日前、名護市市議会議員の大城敬人さんに案内してもらった。2度目は、2015年2月だった。取材ノートから、少し思い出をたどる。
2014年6月に最初に訪問した時、壁や柱を伝って、応接間に現れた。必死の形相だった。足が不自由なだけではないようだったが、話は快活だった。「よき人に来てもらった」と、初対面だったが歓迎された。
辺野古の住民たちが「命を守る会」(ヘリポート建設阻止協議会)を結成したのは1997年 1月27日 だった。おじぃはその名付け親だった。前年1996年4月、橋本首相とモンデール駐日米国大使が普天間飛行場の返還を発表。12月、SACO最終報告書に普天間返還の条件として「沖縄本島の東海岸沖」に海上基地を建設することが明記された。
おじぃは辺野古で生まれ育ち、辺野古の長老として、もっともはやく米軍基地建設反対に立ち上がった1人だ。奥さんの芳子さんといっしょに、「命どぅ宝」──辺野古を基地にしてはいけないと訴えるビラをつくり、全戸に配った。これが「命を守る会」結成につながった。「豊かで美しい辺野古の海に戦争のための基地を造らせるわけにはいかない。先祖が守ってきた辺野古の海を子や孫に残したい」。そんな思いからだったという。
ヘノコンチュ(辺野古人)にとって辺野古の海は特別な存在だ。戦前、戦中、戦後の何もない時代、子どもたちを育てることができたのも、豊かな辺野古の海のおかげだとだれもが思っている。ウニやサザエ、エビにタコ・・・。サンゴ礁のリーフは海ガメの産卵地であり、ジュゴンも生息する。「命を育む海」なのだ。
「命を守る会」のおじぃ・おばぁたちがはじめた座り込みは、辺野古新基地建設反対の座り込みの始まりだった。米軍キャンプシュワブ前の座り込みに受け継がれ、いまに続いている。
お宅にお邪魔して驚いたのは、壁を飾る国会議員の写真など、来訪者が多いことだ。それらの中で、ひときわ目立ったのが「辺野古 大浦湾の海に 基地はいりません 稲嶺進 平成21年11月5日」「辺野古生命を守る会 嘉陽宗義様」と書かれている額縁付きの書だ。
「大浦湾」を書き加えたのは、おじぃの指摘によるという。書は稲嶺進名護市長の直筆だ。稲嶺氏が名護市長選に出馬する意思を固めた歴史的な証の書といわれる。
辺野古のおじぃやおばぁの気持ちを伝えながら、嘉陽のおじぃは稲嶺氏にこんな話をしたという。
太陽は東から上るが、基地を容認する市長は西の出身だ。君は名護市のティーダ(太陽)になってくれないか。
「名護を動かした」と、おじぃがちょっぴり自負する歴史的出来事であった。
おじぃはズボンを下げて、左の太ももを見せてくれたことがあった。付け根のあたりが大きく抉り取られてへこんでいる。アジア・太平洋戦争のとき、海軍の信号兵だったおじぃは、ベトナムの海で空爆を受けて重傷を負った。その傷跡だ。
左の上腕部には取り出せなかった弾がいまも埋まったままだという。「触ってみて」というので、そっと触らせてもらった。確かに、硬い塊が皮膚の下にあることが、感触として伝わってきた。痛みはずっと続いているといった。
基地建設に対する反対、賛成で、親兄弟、親類、同級生などが分断されていることに心が痛んだとも言った。だが、「自分の心に正直に生きてきた。自分がしてきたことは正しかったと納得している」と話してくれた。
何が支えかと尋ねたら、こんな答えが返ってきた。
「わたしはキリスト教の洗礼を受けている。平和のための運動は、信仰に支えられている」
合掌