先日、京都で角橋徹也さんとご一緒し、「私の全仕事 ひたすら挑み続けた80年の記録」という冊子をいただいた。角橋さんといえば、大阪府知事選に革新統一候補として立候補(落選)したことを思い出すが、それ以外のことはほとんど知らずに来た。冊子は、角橋さんが「前のめりに挑み続けた仕事の記録」である。
角橋さんが大阪市立大学工学部建築学科を卒業して、最初の職場は京都市の消防署だった。3年後、大阪府職員に転じて、日本初の大規模ニュータウン開発、千里ニュータウン建設に携わり、マスタープランの作成などを手掛けた。
大阪府から日本万国博覧会協会に出向し、日本初の万国博覧会(大阪万博)に取り組んだ。この間、京都大学西山研究室やオランダの社会科学研究所への留学で、都市づくりを学んだ。こうした歩みを知れば、今日も都市プランナーとして活躍されているのも、うなずける。
でもやはり、私にとって興味深かったのは、市民活動家としての側面だ。1980年に大阪府職員労働組合執行委員長に就任し、1987年、1991年の2度、大阪府知事選挙に出馬して、落選した。2期8年続いた黒田革新府政の終焉から8年も過ぎ、勝算は低かったと思われるが、立候補を躊躇しなかった。「社会を変革する原動力は大衆運動であるという信念」に支えられていたという。
大阪府を退職後は建築事務所を開設し、まちづくりと住民運動を一体のものとして取り組んできた。結婚52年。夫人は「私のすべての歩みをサポートし、時にはリードしてくれた」。短い記述からも、角橋夫妻のあり方がにじみ出る。そしていま、「ためらうことを知らず、ひたすら挑み続けた80年は実に面白く躍動したものだった」「実に楽しい人生」と振り返ることができるのは素晴らしい。角橋さんは”市民共同派”だ。今後も、まちづくりの専門家として、市民運動家として、ますます活躍されることを願っている。