昨年末に私が訪れた沖縄では大きな衝撃が襲っていました。一つは、2016年12月13日午後9時ごろ名護市安部地区海岸に墜落したオスプレイ事故と同時に同機種が起こした普天間飛行場への胴体着陸です。2013年1月28日「NO・OSPLEY 」の沖縄県民の総意を『建白書』という形で、安倍首相に直訴したにも拘わらず、放置した日本政府に対する怒りです。
今一つは、元海兵隊の男が島の女性を物色し、棒で殴り、強姦して山に捨てた事件です。沖縄中が、彼女を守れなかった無念と慟哭の中に居ます。米軍の強姦・殺人・放火などの凶悪犯罪だけで過去570件に上ります。もし、島中が立ち上がり米軍基地を一掃していたら、彼女の命は奪われずに済んだ筈です。
沖縄県議会は、辺野古の新基地建設反対に留まらず、海兵隊の撤退などを求める抗議決議と意見書を可決しました。2012年9月29日、私は米軍・普天間基地の大山・野嵩ゲート前に座り込みました。その時、普天間基地は完全に包囲されました。この前代未聞の出来事を『本土の人』は知るよしもありませんでした。何故なら、私の隣に座り込んでいた婦人が、多数の本土・マスコミの取材を受けながら、特にNHKのクルーに「取材だけでなく、明日は必ず放映して下さい。」と、念を押したにも拘わらずNHKを始め全てのマスコミが放映しなかったからです。
琉球朝日放送局のキャスターだった三上千恵さんは、沖縄で起きているこの国の存亡に関わる事件を本土のマスコミが殆んど報道しないことに危機感を抱いて、同局を辞職して映画監督になりました。そして、映画「標的の村」、「戦場ぬ止み」を製作し、新たに、宮古島・石垣島で起きている自衛隊ミサイル部隊の配備と言う大問題を扱い、第3作「『標的の島』風かたか~」を完成させました。「先島」と呼ばれるこの地域が、なぜ今、急速な軍事要塞化か、それが日本の未来をどう変えるのかが扱われています。
オスプレイ配備の阻止と普天間基地の閉鎖・撤去を求めて始まった大山・野嵩のゲート前行動・「闘いの現場」は、4年余を経た今日も続いています。辺野古、高江では、当時からすでに連日の座り込み・監視行動が続けられてきました。昨年の参院選直後、全国から500人にも及ぶ機動隊員を人口150人の高江に送り込み、工事用車両を阻止しようとする住民をごぼう抜きにして工事が強行されました。しかも、米軍に約束した12月中の完成を目指して、無法でずさんな工事が進められたのです。
この事態に全国から「戦争反対」、「自然を守る」、「命を守る」、「高江救済」、等々様々な気持ちに駆られて駆けつける人々は、「闘いの現場」に温かく迎えられて、それぞれ抱えている原発の問題、差別の問題、労働の問題、貧困の問題などを語り合い、楽しく交流を深めて帰ります。かくして、辺野古・高江・普天間の闘いがつくり出した「闘いの現場」は、基地問題を可視化すると同時に、これらの活動を担う人たちを全国に輩出し「本土」の世論を確実に変えつつあります。沖縄人民党の瀬長亀次郎氏が祖国復帰運動で残した名言「弾圧は抵抗を呼ぶ。抵抗は友を呼ぶ」の言葉通りの事態です。
12月22日午後、私達は、土砂降りの雨の中、約2時間半、政府主催の北部訓練場過半返還式典会場の名護市万国津梁館入り口の交差点に立ち、沖縄県民と共に「ヤンバルの自然を守れ!」、「負担軽減はまやかしだ!」の声をあげました。戦中戦後、米軍が奪った土地を、使い勝手が悪くなったからと半分返す代わりに使い勝手の良い高江を取り巻く6箇所に新たなオスプレイパットを作れと言われて、沖縄には喜び祝賀する馬鹿が居ないのは当然です。オスプレイの配備撤去を求めてきた翁長沖縄県知事は北部訓練場過半返還式典を中止するよう申し入れ、自らは欠席しました。従って、参加者もまばらで空席が目立ったとのことです。
一方、その夜、名護市体育館で開かれた、「欠陥機オスプレイ撤去を求める緊急抗議集会」は、定刻に翁長沖縄県知事が入場してくると万雷の拍手が5分間ほど鳴りやまず、最後には全員一致した拍手がバンバンバンと会場を揺るがし,司会の「これから「会」を始めます」の声で、やっと静かになりました。私は、県民の意向に寄り添い、県民から愛されている知事を見て、うらやましいと思いました、参加者は緊急集会にもかかわらず、4200人も集まりました。集会では、「翁長知事と共に、次代に禍根を残さないために、しまぐるみ、県民総ぐるみでオスプレイの撤去、普天間基地の閉鎖・撤去、辺野古新基地建設断念を成し遂げるまで奮闘し闘い抜く」とのアッピールを採択しました。
こうした沖縄の米軍基地撤去の「闘いの現場」を通して、我が国の政治の平和主義の崩壊、民主主義の機能停止、立憲主義の破壊がよく見えてきます。
今年は安倍暴走政権に逆襲の年としましょう!
全く同感です。私たちも地元郡山で、「沖縄・福島連帯する郡山の会」を結成(2015年4月)し、‟沖縄のたたかいを福島で!”を掲げて不十分ながら活動を続けています。引き続き運動を広げていく決意です。