2008年に「子どもの貧困元年」と言われて、すでに8年が過ぎた。厚生労働省は2011年、遡って1985年から2009年までの子どもの貧困率を発表した。2012年の統計も明らかになり、子どもの貧困率は16・3%。じつに6人に1人は貧困状態である。さすがにこの事実のもとでは、2013年「子どもの貧困対策の推進に関する法律」が国会で成立したは当然だろうと思う。
子どもの貧困率は厚生労働省が実施している「国民生活基礎調査」で国民全体の可処分所得の中央値の半分(貧困線)を下回る世帯の18歳未満の子どもたちの割合である。2012年の貧困線は名目所得で年間122万円、実質所得では111万円という。
子どもの貧困率の変化は以下のとおりである。
1985年 10.9%
1988年 12.9%
1991年 12.8%
1994年 12.1%
1997年 13.4%
2000年 14.5%
2003年 13.7%
2006年 14.2%
2009年 15.1%
2012年 16.3%
(出典 厚生労働省「国民生活基礎調査」)
こどもの貧困率の変化から、バブル景気(1986年~1991年)と言われていた時代であっても子どもの貧困は進んでいたことがわかる。けっして、バブル崩壊やリーマンショックの影響で子どもたちの貧困が進んでいたわけではない。
大人の貧困は目に見える景気の浮き沈みで出てくるというのはなんとくわかるような気がするのだが、子どもの貧困は見えにくい。
学校で子どもたちといっしょに生活する中で子どもの貧困を感じることは多い。40人未満の学級で10人を超える生活保護家庭や就学援助を受けている家庭がある。地域差はあるにしても、全国どこでも同じ傾向であろう。
私の関わっている中学生放課後学習教室で、高校受験をひかえた夏休みに生徒の1人が言った。「いきたい高校があるので、塾に行きたい。親にそのことをいうと、夏休みのゼミで10万円以上のカネがかかる。そんなカネは家にない、という。あきらめました。」と。
塾に行かなければならいということに疑問を感じながらも、いきたい高校に入るために塾で勉強することを希望する生徒。しかし、経済的理由で塾にいけない子どもたちがいるのが現実だ。
2016年8月18日のNHKニュース番組での子どもの貧困報道に対して、ネットでのバッシングがあった。国会議員も加わってネットは炎上した。ニュースに出ていた子どもは貧困ではないというバッシングであったが、無理解によるものだ。
また、ある女性誌で読者に「子どもの貧困」という言葉でどんなことを思いつくかという質問をした。回答は
「日本の子どもが貧困か?そんなこと聞いたことがありません。」
「発展途上国に苦しむ子どもたちの話を聞くととても心が痛みます。みんながそれなりに暮らせている日本の子どもたちは幸せですよね。」
「お金に苦しい家庭があるの知っています。実際子どもの通う公立小学校にもそういった子どもがいるんです。でも、それって親がきちんと働こうとしていないからじゃないですか?1人で働きながら子どもを立派に育てている人だっていっぱいいると思うので、厳しいようだけど努力不足であるように思えます。」
子どもの貧困は統計をみても明らかだが、意外にそんなに大変なことになっていると思われていない様にも見える。
厚生労働省が出している貧困率は、所得水準から生活水準を推測する方法で出したもの(相対的貧困率)であるが、実際の生活の質を測ろうとするものもある。剥奪指標とよばれているものがそれである。残念ながら日本では、調査されていないが。
剥奪指標は、EUが毎年全加盟国で行っている社会調査に盛り込まれている。アイルランドやニュージーランドなどではこれを使った貧困指標を公的統計に使っている。
EUにおける「子どもの剥奪指標」に用いられている例は、
新品の衣服(中古ではなく)
ぴったりの寸法の靴2足
年齢にふさわしい書籍
外でのレジャー
屋内のゲーム
勉強や宿題をするのにふさわしい場所
定期的なレジャー活動
特別なときのお祝い
1年に最低1週間、家を離れて休暇を過ごす
(以上 子ども対象)
古くなった家具の買い替え
住宅ローン・家賃・公共料金・分割払いの滞納がない
コンピュータ保有と家での自分用のインターネット接続
家で十分な暖を取る
自家用自動車
(以上 子どもの属する世帯)
剥奪指標の例を見ると、生活の質で貧困かどうかが直感的にわかる。
さらに経済的に貧困であることから、子どもの発達が阻害されていることや学力をつけることも困難になっている。大人になると貧困になる可能性が高く、貧困の連鎖も考えられる。子どもの貧困は今経済的に困るということだけで終わらないことも知ってもらいたい。
「子どもの貧困対策の推進に関する法律」ができたが、政府は本気で子どもの貧困をなくそうとしているのだろうか。
なくすためには何をしなければならないのか、何が出来るか。大きな課題である。