東京都議会議員選挙で、安倍・自民党は歴史的惨敗を記録した。都議選は次の国政選挙の前触れともいわれるが、自民党内の政権たらいまわしに終わる可能性も高い。国政変革への道を切り開くのは主権者としての自覚的な粘り強い市民運動だ。
惨敗した自民党に代わって、都民の受け皿となったのは「都民ファーストの会」(代表・小池百合子都知事)だ。正面からの批判を浴びなかった結果ともいえる。
小池都政は東京再開発に人も予算もつぎ込む都政だとする、進藤兵・都留文科大学教授らの批判がある。だが、都議選では東京の全体像、目指すべき将来像が問題にされることはなかった。小池人気におびえ、民進党からは離党して都民ファーストの会に走るものが続出し、共産党も小池予算に賛成し、都政を正面に据えた選挙戦にはしなかった。
都民の自民党批判票を得て「都民ファーストの会」のメンバーは当選した。東京再開発・国際金融都市をめざす小池都政とどのように向き合うのか、早晩問われるだろう。
安倍政権の失政が自民党惨敗をもたらしたというのはマスコミの共通認識といえる。私は全国各地で繰り広げられた主権者としての市民運動に注目したい。
都議選最終日の7月1日。都民の批判を恐れて街頭演説に立てなかった安倍首相(自民党総裁)が、JR秋葉原駅前で初めて街頭応援演説をするのを動画でみた。「安倍やめろ!」「帰れ!」のコールにたいし、安倍首相は「こんな人たちに負けるわけにはいかない!」と絶叫した。
主権者に対して、この幼稚さ、この傲慢さはなんだろう。これこそが安倍首相であり、安倍政権なのだと改めて思い知った。
安倍政権の単なるゆるみやおごりの問題ではない。森友学園問題、加計学園問題、そして「共謀罪」法強行成立と進むにつれ、国会周辺では「国民をなめるな」というプラカードが目立つようになった。「主権者は私たち」のコールも大きくなっていった。この運動の持続と広がりなくして安倍政権の支持率低下も都議選の結果もなかっただろう。
加計学園・森友学園問題でも主権者国民を逆なでする安倍政権の対応だった。公文書であるはずの資料を廃棄した、あるいは「怪文書」などとして疑惑解明にふたをする。安倍首相自身、昭恵夫人、萩生田官房副長官らの問題なのに、説明責任を回避する。
安倍政権の、安倍政権による、安倍政権のための政治。いったん政権につけば、何をやっても許されると言わんばかりの振る舞いだ。これを政治の私物化といわずなんといおうか。
稲田防衛大臣の言動も、安倍政権そのままだ。東京都議会議員選挙の自民党候補の応援演説で「自衛隊・防衛省とも連携のある候補だ。防衛省・自衛隊、防衛相、自民党としてもお願いしたい」と投票を訴えた。
「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と規定する憲法15条や国家公務員法、自衛隊法、公職選挙法にも違反することは明白ではないか。しかし、安倍政権にあっては許されるのだ。まるで自衛隊は安倍・自公政権の私兵だとばかりに。
「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」。これは人類普遍の原理だと日本国憲法は前文でうたっている。
朝日新聞には次の投書が掲載された。〈今年の「6・15」を境に、多くの国民が一人の主権者として、自分の同時代史に関わっていく自覚を持ち始めたのではないでしょうか。〉私もこの投書に共感する。自覚した主権者としての運動こそ変革の原動力だ。
今回の都議選は、国政選挙を考えるうえで示唆的だ。自民党の支持基盤は脆弱であること、野党共闘を推進する既成の野党勢力も現状では自民党批判の受け皿とはなりにくいことを物語る。
この先、国政の野党共闘を推進するなら避けては通れない大きな問題が2つある。憲法第9条と辺野古新基地建設だ。この2つは表裏一体の問題でもある。
憲法第9条はいうまでもないだろう。辺野古新基地建設は、名護市民、沖縄県民の総意として反対だ。それを日本国民の名で、沖縄県民の総意を押しつぶすことが許されるのか。そのことが問われる。
辺野古新基地建設を許して「9条守れ」とは言えないだろう。日本国憲法の核心は「個人の尊厳」の実現にあるといわれる。しかし米軍の新基地建設は、人間の命と人権を踏みにじることに直結する。
主権者国民として、どんな日本社会にしたいかを考えるなら、憲法第9条を守ること、辺野古新基地建設に反対することを野党共闘の政策として確立する必要がある。野党共闘を議席獲得の手段にしてはならない。目指すべき日本社会像を掲げ実現していく運動、それが主権者としての市民運動だと思う。