【沖縄とともに】

宮城篤実:沖縄は自らの意思で米軍基地を提供したことはないし、これからもしない〈2017沖縄レポート⑪〉

 宮城篤実さんは翁長・沖縄県知事の後援会長です。極東最大といわれる米軍嘉手納基地のある嘉手納町の町長を20年間勤めました。数年前、脳こうそくで倒れ、いまリハビリ中です。約束の場所に予定より早く、車いすで待っていてくれました。〈文責・星英雄〉

 いまある沖縄の米軍基地はすべて、米軍に強制的に土地を接収されて提供させられたもので、沖縄県民が同意して提供した基地は1つもありません。したがって、辺野古に基地を造らせることに賛成するわけにはいきません。賛成すれば、自らの意思で提供したことになるので、許されない。これは、翁長知事も私も同じ考えです。

 嘉手納基地も1坪だって、嘉手納町民が同意して提供した土地はありません。日本が戦争に負けて、住民はみんなブルドーザーで追いやられてしまって、あれだけ広大な飛行場が造られたのです。

 あそこにはもともと13の集落がありました。いまの米軍基地のところに、そっくりあったんです。そういう状況ですから、嘉手納は1坪だって自分の意思で提供した土地はないんです。いまある嘉手納町役場も軍用地でした。そこは米軍が地主に一時的な使用を認める黙認工作の畑でした。せめて役場を建てる土地は、共同使用という形でもいいから返してもらいたいと交渉したのです。

 私が町長になる前の議員時代のことです。その交渉は町長ではなく、町議会議員の私がやりました。私は敷地選定委員長でしたので、沖縄防衛局と相談しながら進めました。

 しかし、われわれが返還させたのはここだけです。米軍が接収した土地は終戦直後からほとんど動いていません。要求はし続けてています。

 私の町長時代から嘉手納基地の全面返還を要求してきました。いまの當山町長もそうです。しかし、日本政府は相手にしてくれません。橋本内閣の梶山官房長官は物分かりがいいと思ったけど、「全面返還か」と大騒ぎになった一幕もありました。

 地位協定の問題がありますが、捜査権など犯罪に関することなどは実はたいしたことではありません。最も重要な問題は基地の使用、運用に関することです。この問題についてはアメリカに日本から少しも物がいえない。これが重要な問題です。

 嘉手納町は独自に、せめてこれだけは地位協定のなかに盛り込んでほしいという形で、「嘉手納基地に関する使用協定」の締結を求めています。きっかけは2005年8月、役場のすぐそばで米軍のGBS(地上爆発模擬装置)訓練が実施されたことです。町民から基地被害の実例を提出してもらって、まとめました。騒音や飛行ルート、訓練などの規制を求めています。

 基地の跡利用についても、町長の時に提案しました。世界の航空機が翼を休めるようなメンテナンス基地にしようという構想です。朝鮮戦争、ベトナム戦争のとき、殺戮のための拠点になっていた広大な嘉手納基地をどうするか。嘉手納は、基地をこわして芋を植える必要はないと思います。米軍基地を返還してもらい、メンテナンス基地にして活用しようという内容です。

 この構想に対して、在沖縄米国総領事のクリステンソン氏が「いつも飛行機がうるさいというのに、なんだ」とクレームをつけてきたことがありました。

 私はこういいました。あなた、豚小屋のにおいを知っていますかと。豚小屋は周りの住民が我慢できないほど、臭いんです。

 飛行機の騒音をきいても、あなたはアメリカ国家のためとか日米安保のためと我慢できるかもしれないが基地の周辺にいる我々は我慢できない。米軍は豚小屋といっしょだ、といいました。クリステンソン総領事は不満そうな顔をしたけれど、静かに去っていったことを覚えています。

 私たちは実務的に要求していますが、国はまったく相手にしてくれません。政府が変わるたびに何回も要求しました。嘉手納町長として嘉手納基地の運用について少しでも改善してほしいと提起してきました。民主党政権の時代にもそうしてきました。

 いま希望の党の前原誠司さんが民主党政権の外務大臣になる前に、東京の彼の事務所で何回も話をしました。民進党の岡田克也さんにも話をしましたが、彼はものもいわずに帰っていきました。希望の党の長島昭久さんは勉強したいと私のところにきました。資料を持って帰りましたが、そのままです。民主党政権も自民党政権と少しも変わりませんでした。

嘉手納基地から飛び立つ米軍機

米軍嘉手納基地の一部(嘉手納基地は東京ドームの425倍の広さ)

 嘉手納町の職員のなかで、退職してから辺野古に通っている人たちがいます。私の町長時代に運転手をしてくれていた人とか、非常にまじめな人たちです。彼らの持続するエネルギーにはとても感心しています。

 沖縄県民のなかで、沖縄のこれからをどうするか、思いを深くしている人たちが辺野古に集まっていると思います。自分の仕事も生活も、趣味も家庭もあるのに、自腹を切ってキャンプ・シュワブのゲート前に行っています。寒い日も、暑い日も、座り込むことはただ事ではありません。継続していることに、私は感銘を受けています。

 NHKの砂川闘争の映像(「砂川事件 60年後の問いかけ」=16日放映)を懐かしく見ました。私は米軍基地の拡張に反対する砂川闘争の後ろについていっただけでしたが、あの頃の学生運動のリーダーたちは輝いていました。

 数年前、リーダーの1人だった土屋源太郎さんは嘉手納まで来てくれましたが私は入院中で、お会いできず残念でした。私はこれまで保守の政治家などと言われてきましたが、いま翁長知事の周辺の少し若い方たちからはリベラルと言われています。

 砂川闘争は私の原点です。

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