【連帯・社会像】

星英雄:主権者としてどんな日本社会をめざすか

 元旦の朝、多摩丘陵を散歩した。晴れてはいたが、冷え込んでいた。途中の池には氷が張っていた。1時間半の散歩を終えて、気分は爽快だ。

 今年は憲法9条をめぐる攻防が正念場を迎える。憲法に自衛隊を明記するという安倍首相を中心とした改憲勢力と、その国会発議を許さないとする「護憲」勢力の攻防だ。

 衆参それぞれの本会議で総議員の3分の2以上の賛成で可決すれば、国会が憲法改正を発議する。その後の国民投票で、有効投票総数の過半数が賛成すれば改憲が実現する。9条が空文化する。

 国会では、9条改憲に反対する勢力は少数派だ。国会で発議させないためにも、国民が声をあげ、運動するしかない。「安倍9条改憲NO!」の3000万人署名もある。いまこそ主権者国民の出番だ。

 「9条を守れ」とはざっくりした話、戦後日本の平和的な歩みを壊すなということではないか。しかし今や、沖縄の現実に目を瞑るわけにはいかない。沖縄の海兵隊が、アフガニスタンやイラクに出撃し、沖縄で訓練した米軍が世界の紛争地に出撃していく。

 20歳の女性が暴行され殺された沖縄の現実。民家の上空を飛び交う米軍機による被害は絶えない。沖縄では日々、命と人権が蹂躙され、日本国憲法がうたう「平和的生存権」はむなしく響く。

 沖縄の米軍基地をどう考えるのか。沖縄を考慮に入れない9条論はまやかしだと思う。

 2011年3月11日の東京電力福島第一原発事故に端を発した新しい市民運動は、総がかり行動実行委員会を軸とした日本の市民運動へと大きく発展したが、曲がり角を迎えていると思う。「野党共闘」は、果たして日本社会の変革を願う人々の期待にこたえているのか。

 憲法違反の安保法制廃止を旗印に、市民も野党も運動を進めてきたことに大きな意義を認めるが、限界があるのも確かなことだ。安保関連法成立後、参院選と衆院選、2つの国政選挙を経て、自民党をはじめ改憲勢力が3分の2議席を占めた。立憲民主、共産、社民の3党が選挙協力をしたとしても、政権奪取を展望するのはきわめて困難と言っていい。

 振り返れば、衆参2回の野党共闘は、いわば「選挙互助会」のようなものでしかなかった。野党がバラバラでは小選挙区制では勝てないということが強い動機だった。野党同士が政策協定を結ぶのではなく、市民連合を間に入れて、市民連合と各野党が政策協定を結ぶ「ブリッジ共闘」が実態だ。しかも、政策協定には「辺野古新基地建設反対」の文字はない。

 「辺野古新基地建設に反対しない野党共闘になんの意味があるのか」。沖縄紙の記者の言葉は痛烈だった。東京・新宿駅西口で日曜午後に行われる「高江辺野古スタンディング」には「立憲民主党も沖縄県民へ信義をつくそう」というプラカードが登場した。

 沖縄を除外して「立憲主義」とは、理解しがたい。

 市民が目指すべき日本社会像を掲げて運動を進め、裾野を広げる段階に入ったと思う。そうしなければ、野党も政治状況も変わらない。

 国の形を決めるのは主権者国民だ。核兵器に依存しない日本社会、原発のない日本社会、せめて沖縄・辺野古に新基地を造らせない日本社会。最低限、このような日本社会をめざしたいと私は思う。

 世界は核兵器禁止条約の批准に向かって進んでいる。世界の若者、市民が原動力だ。1人1人の市民が動けば日本も変わる。

 憲法9条は、将来も日本社会の中核だ。立憲主義の担い手は国民・主権者なのだ。

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