「ノー オスプレイ!」「ノー ベース!」
まだ明けぬ薄闇に、短く、鋭く、抗議の声が響く。
「GO Home with OSPREYS」「US Forces OUT!」などと書かれたプラカードの横を通り抜けて、米海兵隊員の車が次々にゲートの中に入って行く。
ゲートのすぐ手前のあたりから、歌声が聞こえてきた。「〽われらのものだ普天間は 沖縄を返せ」
ここは沖縄県宜野湾市・米軍普天間飛行場の大山ゲート、1月25日午前7時前。普天間基地に出勤する米兵たちにたいし、「オスプレイ反対」「基地はいらない」と沖縄の人たちが抗議の意志を突きつける。
「撃つぞ、と海兵隊員が威嚇するんです。握っていたハンドルを放して両手で銃を構える姿勢で」
抗議行動の中心になっている「命(ぬち)どぅ宝・さらばんじぬ会」の宮平光一(66)さんは言った。米軍のやりたい放題がまかり通る沖縄で、抵抗するものは殺すという軍の論理が図らずもむき出しになった場面。沖縄における米軍と県民の「関係」が象徴的に現れている。
それでも宮平さんは、米兵のいらだつような反応が目立つようになったのは、ここでの抗議行動の成果だと受け止めている。「なんとかオスプレイ撤去につなげたい。米軍基地はここに居座ることはできないということを米兵に実感させたい」
「命(ぬち)どぅ宝・さらばんじぬ」とは「歳はとっても、命を守る思いは真っ盛り」という意味だ。抗議行動参加者は、米軍と日本軍の戦いで9万人を超える住民が命を奪われた沖縄戦を、直接間接に知る高齢者が多い。日米両政府が普天間に垂直離着陸輸送機MV22オスプレイを強行配備する昨年10月1日の直前から取り組みはじめた。派手さはないが、月曜~金曜の毎朝6時~8時、「粘り強い日常的な活動」として続いている。この日の抗議行動には20人が参加した。
「あっちの方向が普天間第2小学校です」と指差しながら、宮平さんの話はつづいた。普天間基地は宜野湾市のど真ん中を占拠している。密集する人家すれすれに米軍機が飛ぶ。日本の航空法では、人口密集地では300メートル以上の上空を飛ばなければならないが、米軍機には適用されない。
米空軍・米海兵隊の飛行場安全基準では、離発着の際の安全を確保するためのエリア─家などがあってはなら ないとされるクリアゾーンに、普天間では普天間第2小学校をはじめ病院、公共施設などが18カ所、住宅800戸、そして3600人がくらしている。米軍の規定では存在できないはずの「世界一危険な飛行場」なのだ。
オスプレイ強行配備から4カ月。宜野湾市の基地被害110番に寄せられる市民の苦情は増加傾向にあると、市の担当者は話す。オスプレイ特有の、人に不快感をもたらす低周波音の被害も現れている。オスプレイは、開発段階から墜落・死亡事故を繰り返し、配備後も世界のあちこちで死亡事故はやまない。沖縄は米軍基地があるために、文字通り、命が危険にさらされている状態が続いている。
なのに「沖縄の住民が基地司令官に会おうとしても会えない。なぜ地元住民の声を聞こうとしないのか。どんな思いで生活しているのか、考えたことはあるのか」と宮平さんはいう。
沖縄の訴えは米軍にも日本政府にもきいてもらえない。だから、いま行動しなければと強く思う。「わたしたちの代で普天間基地を撤去させたい。これからの沖縄を担っていく世代に負の遺産を残すことはしたくない」。
米軍嘉手納基地に隣接するうるま市から抗議行動に参加した小橋川共行(70)さん。「わたし自身いつも爆音に悩まされ、いつ墜落するかわからない恐怖の生活を強いられている」という。
小学校教師を10年前に退職した。「普天間基地周辺だけでなく、沖縄の子どもたちの未来が心配だ」と話す。 「授業は、勉強はちゃんとできているのか。運動場で元気よく跳び回っているだろうか。ヘリコプターの重低音は人の心を不安にする。心を壊されないか、心配だ。楽しいはずの子ども時代、人間形成にとって大事な人生の『黄金期』を米軍機の下で過ごさせてはいけない」
小橋川さんは、親戚を米軍機に殺された。1959年6月、米空軍のジェット戦闘機が石川市の宮森小学校(現うるま市立宮森小学校)に墜落し、 小学生11人を含む17人の死者、210人の重軽傷者をだす大惨事となった。その犠牲者の1人だ。「補償金はたったの2500ドルだった」という。
基地がある限り、「沖縄には憲法が保障する『恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生存する権利』はないも同然だ」と、小橋川さんは思う。
大山ゲートを後にして野嵩ゲートに回った。抗議行動に参加していた60歳代の男性に聞いた。直後に、オスプレイが頭上を通過、轟音で話は中断した。時計は午前9時55分をさしていた。
「学校も病院も市街地もおかまいなし。米軍は自由自在に飛び回る。(安全を確保するという)日米合意なんてばからしくて沖縄では誰も信じていませんよ。あれは本土の人たちに向けた宣伝だね」
普天間には今後さらに12機が配備される。嘉手納にも2年後をめどにオスプレイが配備されると、米軍は明らかにしている。
男性の怒りはおさまらない。「沖縄の基地は抑止力に関係ないと森本大臣が言ったでしょう。アメリカでは住民の反対でオスプレイの訓練は中止だ。基地がなくなれば雇用も増える。こんなことは沖縄では誰もが知っている。それなのになぜ沖縄に基地が集中するのか。差別じゃないか」
いま世論調査では、オスプレイの配備にも、普天間基地の県内移設にも9割の県民が反対している。昨年9月9日、宜野湾市での県民大会は戦後最大規模、10万人が抗議の意志を表明した。1月28日には、沖縄県の県議会議長をはじめ41全市町村長と各議会の議長らが、オスプレイの配備撤回と、米軍普天間飛行場の閉鎖・撤去、県内移設の断念を求める建白書を安倍晋三首相に手渡した。「沖縄の自己決定権を取り戻す不退転の決意が示された節目の日」(琉球新報29日付け)となった。「オール沖縄」の意志はきわめて鮮明だ。だが、日米両政府は耳をかたむけようとさえしない。
「沖縄戦でいやというほど苦渋を味わわされて、いままたさらに犠牲にされなければいけないのか」。かつてない沖縄の基地反対運動の高まりの底流には、苦難の歴史からくる深い憤りがある。
沖縄は太平洋戦争の末期から、犠牲を強いられてきた。普天間基地は沖縄戦のさなかに米軍が力ずくで土地を接収、建設した。沖縄の米軍基地はどこもそうだ。海兵隊は岐阜や山梨から移ってきた。1972年の復帰後もほとんどの米軍基地は残されたまま。1996年の日米「SACO合意」は、普天間基地を返すかわりに新基地建設を要求する。日本の面積のわずか0.6%の沖縄県に、日本にある米軍基地の75%が集中している。基地があるからレイプなど米軍犯罪はつねに繰り返される。
いま沖縄は熱い。日米安保条約と基地に詳しい沖縄の研究者はこう解説してくれた。「沖縄戦の体験者が、最後の奉公だと思いつめて行動に参加してきている。若い世代は生活の制約があるが、高齢者は正義のたたかいだと腹をくくっている。それが、静かだがインパクトのある運動に結びついている」
「差別」を公然と沖縄の人たちが口にするようになったのはここ数年のこと。そのことは、沖縄のいまを理解するうえで欠かせないと那覇市在住のジャーナリストはいう。
「以前はうすうす差別されていると感じてはいても、認めたくない人が大半だった。でも、県民の9割が反対しても沖縄におしつけられる現実を考えれば、そこに行き着かざるを得なくなる。差別されていると自覚すれば、尊厳をかけたたたかいにならざるをえない。後戻りはできないのです」
大山ゲートで、高齢の女性が言った。「わたしたちは誰の指示も受けていない。自分の良心に従って行動しているんです」 。これまで表立って行動しなかった人たちも動き始めて、運動は新たなステージで展開し始めている。
「本土」は沖縄の思いをどう受け止めるのか。
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普天間、高江、伊江島、辺野古の現場から沖縄の「思い」を伝えたい。
オスプレイがどれほど危険で人々の日常生活にとって邪魔なものなのかよくわかりました。今後のリポートも楽しみにしています。できれば、沖縄の若い人たちの声も伝えてください。