伊江島は、沖縄本島北部の本部港からフェリーに乗って30分のところにある。島の中央にある城山は高さ172メートル、周囲わずか22キロメートルの小さな島だ。その小さな島を、オスプレイが揺るがしている。
「オスプレイが引き起こす騒音や粉じんがひどく、住民の健康被害が心配です」
オスプレイの基地・米軍伊江島補助飛行場に近い集落、西崎区の儀間五子区長は切実な不安をもらす。
垂直離着陸輸送機MV22オスプレイが伊江島に飛来したのは米軍普天間基地にオスプレイが配備された直後の昨年10月4日のことだった。それ以来、米軍普天間基地を飛び立ったオスプレイが昼夜問わず、連日のように激しい訓練を実施している。ここで訓練飛行をつづけてきたCH46ヘリコプターにも悩まされてきたが、オスプレイは格段の違いがあると島民は感じている。
沖縄のあちこちでオスプレイの耐え難い騒音が観測されているが、儀間さんは「オスプレイの重低音は地響きのように感じる」という。
粉じんは視界を妨げ、洗濯物や葉タバコなどを台無しにする。オスプレイはすさまじい風圧を引き起こす。舗装をしていないコーラル滑走路を使っての訓練が原因だ。米軍の環境審査でコーラル滑走路は「着陸帯としては利用しない」としていたにもかかわらず、だ。「せめて約束は守ってほしい」との村民の思いは、踏みにじられている。
オスプレイの低空飛行はどこでも周辺住民に恐怖感を与え、怒りをよんでいる。ここ伊江島ではとくに危険だ。オスプレイが巨大なコンクリート・ブロック(約3.175トンのコンクリートの塊)を吊り下げて訓練している。演習場にとどまらず、集落の上空を飛び回ったのだから、これが恐怖でなくて何なのだ。
すでに、米軍普天間基地を飛び立ったオスプレイから飲料水ボトルが落下する事故が発生している。これが、コンクリート・ブロックだったら、どんな事故になっただろうか。事故が発生してからでは手遅れだ。「命の危険と隣り合わせの生活を強いられている」と儀間区長は憤る。
住民の通報などをもとにした伊江村の統計がある。1月までの合計は、訓練日数22日、訓練回数は昼間478回、夜間59回、コンクリート・ブロックの吊り下げ訓練は36回、コーラル滑走路への着陸は38回にのぼっている。 伊江島にオスプレイが4機で飛来して訓練したのは昨年12月10日に1度あっただけ。それ以外は1日に1~2機がやってきただけだった。
これまでは、いわばまだ序の口だ。米軍が公表したオスプレイの「環境レビュー」で、伊江島は「最大の変化に直面する」と書かれている。年間の訓練回数は、CH46ヘリの2~3倍の7000回にもなるとされているのだ。さらに、KC130空中給油機など他の米軍機の訓練もある。「最大の変化」をもたらす「本番」はこれからなのだ。
儀間区長はこの先を心配する。「いずれはオスプレイが編隊を組んでやってくることが明らかにされています。そうなれば、想定できないほどの被害をこうむるようになるのでは」
これだけの問題があるにもかかわらず、オスプレイの配備は直前に一方的な通告だけですまされた。住民の訴えにも、米軍は「安全だ」というだけで取り合わない。儀間区長はこういう。
「声を張り上げても日本の政府やアメリカに届かないもどかしさはあるけれど、それでもやはり声を大にしていいたい。私たちはオスプレイの配備に反対です。これ以上の基地の負担は、受け入れることはできません」
伊江島には、反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」がある。ヌチドゥタカラとは「命は宝」の意味だ。 入り口の白壁に「すべて剣をとる者は剣にて亡ぶ(聖書) 基地をもつ国は基地で亡び 核を持つ国は核で亡ぶ(歴史)」とある。米軍占領下の伊江島で、米軍の土地強奪や基地と闘いつづけた阿波根昌鴻(あはごんしょうこう〈1901-2002年〉)の非暴力・反戦平和思想と闘いの足跡が詰まっている。
館長の謝花悦子さん(74)は、オスプレイ強行配備のやり方に、怒りを抑えることができない。沖縄を基地としてずっと使い続けたいというアメリカと日本政府の変わらぬ意志を感じるという。「アメリカは日本を手放さない。日本は沖縄を手放さない。だから沖縄が、日本国民が束になって反対しないといけない」と訴える。
伊江島では住民を巻き込んだ米軍と日本軍の熾烈な地上戦が戦われた。島に残っていたおよそ4000人のうち1500人が殺された。島に戻ってきた謝花さんは「1軒の家もなく、1本の木もなかった。死体が足の踏み場もないほど転がっていた。変わり果てた伊江島をみて、打ちのめされた」と話す。
これだけではなかった。サンフランシスコ条約後、米軍はさらに土地強奪に動いた。サトウキビなどの農作物や松林をブルドーザーがなぎ倒す。米軍の蛮行を、阿波根昌鴻著『米軍と農民 : 沖縄県伊江島』 (岩波新書) はこう記している。
「戦争未亡人である山城ウメさん(39歳)は、15歳の男の子を頭に4名の子供の成長をたのしみに、女手一つで育てている婦人であります。 米兵には情をもつ人間はいないのか、ウメさんの家に入るや『ママさん、マッチ。ママさんマッチ』と言ってマッチをさがし求め、ウメさんがうろうろと『やめてくれ、やめてくれ』と泣き叫ぶのを見ながら建物に火を放ち、炎々と燃え上る炎を見て楽しむかのように見えた。このようにして次々と私たちの13戸は、ブルドーザー によって引きならされ焼き払われてしまいました」。(漢数字を算用数字に置き換えた)
謝花さんは沖縄戦と土地闘争のことを忘れることはできないし、決して忘れてはいけないと心に刻んでいる。「戦争は終わっていない」と、痛切に思う。
不発弾を島外に運び出す米軍の船が爆発して、島民ら106人が死亡、8家屋が全焼したのは1948年のことだ。いまも毎年のように米軍の不発弾は掘り起こされている。そして米軍基地は居座りをつづけている。「アメリカも日本も、沖縄戦で人間を殺しつくした責任をとったなどといえるはずがない。アメリカと日本政府は、いまだに沖縄の人たちを人間とは見なしていないのではないか」。そんな思いにかられるという。
オスプレイは島民の平穏な生活をも奪った。島の正月は島外、県外に出ている兄弟や甥姪親族が集まる。1年前から楽しみにしていた里帰りだ。だが、オスプレイの演習が、せっかくの団らんをぶち壊す。ささやかな安らぎさえ与えてはくれない。
「生まれてくる子どもたちにとって、伊江島は安全な島か日本は安全な社会か」と問い返して思う。「私たちの世代は遠からず終わりが来る。平和で安全な社会を残すのはわたしたち大人の責任、政治の責任だと思います」。戦後の伊江島で闘い、生きてきた者として。
怒りを胸の中におさめて謝花さんはいう。
「国がどれほど悪かろうが、結局それは国民の責任ではないでしょうか。国民は知らなすぎると思う。知ることは力です。伊江島と沖縄の現状をぜひ知ってほしい」