【連帯・社会像】

雪田慎二:子どもたちに安全な未来を(その1)~2012年 チェルノブイリ原発視察報告~

 2012年4月に全日本民主医療機関連合会(全日本民医連)の被ばく問題委員会の委員としてウクライナ・ベラルーシを訪問した。ウクライナではチェルノブイリ原発の視察及び被災者当事者団体との懇談、ベラルーシでは汚染地域での医療従事者、住民との懇談をおこなった。また、同年9月にはウクライナ・ドイツを訪問し、ウクライナではチェルノブイリ原発視察及び周辺の汚染地域の医療従事者との懇談、ドイツでは再生可能エネルギーに取り組む市民団体、自治体の視察をおこなった。

 視察の目的としては、ウクライナ・ベラルーシに関しては、①チェリノブイリ原発事故後から26年経過したチェルノブイリ原発4号炉および周辺地域の状況と被災者の実情を把握する、②原発事故被災者による当事者運動や現地の医療従事者との交流を通じてその動向と現状を把握する、③以上を踏まえて今後の福島原発事故の被災者支援のあり方を考える、といったことが挙げられる。

 またドイツに関しては、①ドイツにおける反原発の運動や再生可能エネルギーの取り組みの実態を把握すること、②その実践に学び、今後の日本における脱原発運動および再生可能エネルギー転換の取り組みの方向性を明らかにすること、などである。

 今回は、2012年4月及び9月の二回にわたって視察したチェルノブイリ原発及びその周辺地域の状況について報告する。尚、空間線量率の測定は、HORIBA PA-1000 Radiを使用した(*印はバス車中での測定値で、それ以外は屋外地上1mでの測定値)。

 キエフ中心街からバスで約2時間。市街地から農村部の住宅街(*0.025μ?)をぬけ、森林地帯(*0.04μ?)が長く続く【写真1】。

    道路沿いに農家が点在するが廃屋も徐々に増えてくる。森をぬけると湿地帯、平原が続く。広大な平野が続き山など視界を遮るものはない。30kmゾーンの検問所に到着【写真2】。    ゲートと詰所以外は周辺には何もない。見学者全員のパスポートがチェックされる。以前まではチェルノブイリ原発敷地内は立ち入り禁止であったが、現在は事前に申し込めば見学が可能で、特に2011年以降は見学者が増えてきている。検問所(0.065μ?)周辺はしっかり除染されている。検問所の写真撮影は禁止。30km圏内は原発を管理する約3千職員の居住と労働は認められている。

 そこから先はガイドのニコライ氏が同行。チェルノブイリ・インターフォルムという会社に所属。敷地内に入ると道路沿いに廃屋が続く(*0.086μ?)。チェルノブイリの町に入り、チェルノブイリ・インターフォルムの案内所(0.12μ?)で汚染の概況説明を受ける。案内所は展示物が整理されており見学者の受け入れに力を入れ始めていることがうかがわれる【写真3】。

   ここで見学者は誓約書に署名をする。ベリー、キノコを採ることは禁止、植物・土・建物に直接触ることも禁止、見学後放射能の測定をすること等のルールに従うことが義務付けられており、放射線管理区域という扱いとなっている。

 そのすぐ近くに、2011年に完成したチェルノブイリ原発事故25周年記念の公園がある。原発事故後に廃村となった92の村と2つの市(チェルノブイリ市・プリピャチ市)の名前が書かれたプレートが掲げられている【写真4】。

    公園の周囲にも崩れかけた廃屋が多数みられる。園内には折り鶴のモニュメントがあり、FUKUSHIMA・HIROSHIMAの名前も見える。郵便ポストもあり避難先のわからない人宛ての手紙を入れるとインターフォルムが居場所を確認して届けてくれる。

 公園を離れ原発に向かって道路を進んでいくと、今となっては歴史遺産の大きなレーニン像(0.102μ?)が見られる。消防士の記念碑が立っているが、放射線のことを何も知らされず無防備のままに初期消火にあたり、急性放射線障害で2週間以内に亡くなった28人の消防士の活動を讃えている【写真5】。

    事故処理に使用した装甲車、ロボット車、シャベルカー(0.328μ?)などが道路わきに展示されている【写真6】。

    日本製のものあるようだが、多くは故障などで役に立たなかったという。最後はバイオロボットによって除染されたとガイドから説明される。バイオロボットとは、手作業で除染作業に従事した労働者を指す。被ばくを避けるために、短時間に区切って作業を繰り返したというが結果的には大量の被ばくをすることとなる。どんなに高度な技術を導入しても、結局最後は生身の人間が除染作業を行わなければならないところに原子力事故の本質があるように思われる。

 10kmゾーンにも検問所がある。やはり通過時は撮影禁止。特に警察官を撮ってはいけないと注意をされる。10km圏内での居住は認められず、原発関連の仕事に従事する者のみ入ることができる。しばらくするとコパチ村跡(原発から3~4km)が見えてくる。家があった場所は土が被せられており、小高い丘になっている。幼稚園だけは建物が残っている。道路から幼稚園に向かう小道がかなり汚染されており、ガイドが指をさしたところの線量を測定すると(5.78μ?)にまで跳ね上がる。

 ガイドはどの場所が最も線量が高いのか熟知している。建物の中には、子どもたちが遊んだ人形、描いた絵、言葉や数字を覚えるための教材が散乱して徐々に朽ち果ててきている【写真7】【写真8】。

    泥棒も入ったようだ。原発労働者の住むプリピャチ市は原発事故36時間後に事故の知らせを受け、3時間以内に3万人が避難したが、コパチ村の幼稚園児には、その更に後に避難指示が出されており、その間に大量の被ばくをしている可能性がある。

 幼稚園を抜けると、あのチェルノブイリ原発が見えてくる。テロ対策とのことで決まったポイント以外からの撮影は禁じられているが、実際には多くの見学者は自由に撮影している【写真9】。

   大爆発を起こした4号炉前200~300mのところに小さな公園がある。そこは線量が特に高く(8.5~8.9μ?)となっている。4号炉を見ると、石棺のコンクリートが老朽劣化しているのが一目でわかる。ひび割れや穴が多数あいているという話もうなずける。放射能漏れは現実の問題であり、石棺が崩壊すれば更に大量の放射性物質が再度放出される危険性も高い。「放射性物質の封じ込め」は未達成で、原発事故は収束しているとは言えず、現在進行形と言うべきであろう。

 その対策として、4号炉脇では第2の石棺の工事が始まっており2015年までに完成する予定という。ノバルカというフランスの企業が請け負っている。したがって4号炉周辺では多くの作業員が働いている。近くでは鉄骨の骨組みが建設中で、最終的には、かまぼこ型のドームができる【写真10】。

   それをレールの上で滑らせて4号炉全体をすっぽり覆う計画だ。そのドームの中で原子炉本体や建屋を撤去するというが、それがいつになるのか本当に実現するのかは見当もつかない。 遠くを見ると、事故当時建設中だった原発(5号炉)と工事用のクレーンがそのままとなっている【写真11】。

    当時80%完成していたようだ。すぐに建設を断念したわけではなく、事故後汚染され使用停止されていた3号炉が再稼働できる見通しが立ったので建設中止としたらしい。1986年のチェルノブイリ原発事故後、事故を起こした4号炉以外は2000年12月まで十数年にわたって稼働し続けたという事実は一般にはあまり知られていない。

 4号炉から3~4kmのところに、原発労働者の町であるプリピャチ市がある。人口5万人のうち1万2千人が原発関連労働者だった。当時の住民の平均年齢が26歳ということから子どもたちが多数いたことがわかる。事故があったという事実は隠され、36時間すごしたのちに避難命令がだされた。パスポート、現金、3日分の食糧を持つよう指示され、すぐに帰って来られるというふれ込みだったが実際に帰れた人は一人もいなかった。

 市の入り口にも検問所がある。現在は廃墟と化しているが、1970年に建設された街は当時としては最も近代的な都市だったようで、アパート群だけではなく、立派な体育館や娯楽施設もある【写真12】【写真13】。

   メインストリート(*0.8μ?)の両側には窓ガラスの割れたアパート群が連なっている。一部の娯楽施設や建物は劣化により崩れ始めている。ガイドからはアスファルトの上を歩き集団で行動するようにと指示される。オオカミや野生化した動物がいて危険だという。冗談にも聞こえるが、このゴーストタウンを1人で歩くのは勇気がいる。世界1有名な観覧車は今もそこにある【写真14】。

   1986年のメーデーにオープンする予定だったが、その数日前に事故が起きたために使用されないまま終わった。本当は大勢の子どもたちで賑わうはずの遊園地だが、今は錆びついて朽ち果てるのを待っているだけだ。かつて子どもたちが遊んでいた遊具も街中で見られる【写真15】。

    ホットパーティクルが落ちたという場所をガイドが教えてくれた。遊園地内の広場の苔の上(10cm)でHORIBAの線量計が振り切れた(10μ?以上)【写真16】。

   土の上ではなく、なるべくアスファルトの上を歩くようにというガイドの指示の意味がようやく理解できた。 案内してくれたニコライ氏は24歳。大学で観光業を学んだが仕事がなく、このガイドになった。食事、居住費はただ。15日間働き、15日間休むパターンを繰り返している。2010年までは訪問者は年200~300人程度。多かったのはスウェーデン人など。福島第一原発事故以降は年9000人、日本人の訪問者も増えたという。最後に30kmゾーンの検問所で、両手や衣類の放射線測定を実施する。それを受けないと外に出ることができない。

 チェルノブイリ原発を視察してまず感ずるのが、日本はチェルノブイリ原発事故からほとんど何も学んでいないということだ。「原子力事故には始まりはあっても終わりがない」とよく言われるが、チェルノブイリ原発事故は、放射性物質の封じ込めということだけを見ても収束したなどとはとても言えない状況で、福島第一原発事故における「収束宣言」がいかに虚しいものかがよくわかる。健康被害も現在進行形であり、原発事故は何も終わってはいない。

 いかに学ぶ姿勢に乏しいか、その象徴的なできごとを1つ紹介しておきたい。私たちがチェルノブイリ原発を訪問した2012年4月6日、私たちは原発30kmの検問所にいた。私たちの乗っているワゴン車の前にマイクロバスが停車しており、よく見るとそれは日本人の視察団であった。その日本人グループの1人に声をかけ、私たちが全日本民医連の視察団であることを伝えた。

 彼らも最初はなかなか身分を明らかにしてくれなかったが、ようやく国会事故調のメンバーであることを教えてくれた。この偶然にも大変驚いたが、更にもっと驚くのは日本政府の動きである。国会事故調がチェルノブイリ原発を視察しているまさにその頃、日本政府はいったい何をしていたか。原発再稼働に向けての議論を政府内で開始していたのである。

 国の最高機関である国会が組織し派遣した事故調査団が、まだ調査中で何も報告をまとめていないにも関わらず、その活動を無視するかのように再稼働に向け走り出していたということである。そういった意味で、日本の被災者、一般市民の目で26年後のチェルノブイリをしっかりと見ておくことは大切と思われる。 (埼玉協同病院医師)

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