【福島・沖縄からの通信】

星英雄:先が見えない--分断と風化に抗して希望を模索する飯舘村〈飯舘村レポート②〉

 「先が見えない」--。避難を続ける飯舘村民の多くが、この言葉を口にする。日本社会が人生の新たな旅立ちの4月を迎えても、村民は自分たちの明日の暮らし、将来像を描くことはできない。高い放射線量の村に戻りたくはない、しかし、すべてを失った村民が新たな生活を始めることもきわめて難しい。きちんと責任を果たそうとしない加害者の政府・東電に対する怒りは強い。

 いま、飯舘村の6000人余のうち、1100人が仮設住宅に住んでいる。78歳の女性Aさんは、その1つ、松川第一仮設住宅に暮らす。原発事故後、村を離れて転々と住まいを移し、この仮設住宅は4カ所目。1昨年夏に入居した。子や孫とは離れ離れ。かつて10室を超える広い住宅で暮らしていた家族はいま、3カ所に分かれて暮らすようになった。

  たまに飯舘村の自宅をみにいくが「ネズミやらなにやらがいて、中に入れない」とこぼす。いま、仮設住宅の話題の中心は、村に戻れるかどうか。

  「この仮設でみんないってるさ。子どもがいる人たちは村に戻らねえ。若い人は帰んない。年寄りだけ戻っても大変だって」。「じゃあ年寄りは仮設で死ねというのか」。こんなおしゃべりが、ふさぎこみがちな気分を紛らせてもいる。

  同じ仮設の85歳の女性Bさん。

  「村に戻りたい。自分が戻れば息子夫婦も戻ってくれるのでは・・・」。かすかな希望を語るが、少し間をおいていった。「だけど、(村は)元には戻らねえ」。

  Aさんの居室は4畳半。電子レンジ、電気炊飯器、給湯器、茶箪笥、テレビを置いて、4畳半はいっそう狭い。最近の悩みは、隣の音楽の音がもろに響いてくることだ。仮設住宅ではベニヤ板1枚が隣同士を仕切っている。うるさくて眠れない。血圧も高くなった。「隣は何考えてんだべ」。

  久しぶりにAさんと顔を合わせた村民は、「体は小さく、しわが深くなったと思う」という。  こんな話もきいた。ある独身女性は、ベニヤ板1枚を通して聞こえてくる男のいびきに眠ることができないでいる・・・

 冬は寒く、夏は暑い。狭く、プライバシーの保障がない仮設暮らし。この先いつまでここにいなければならないのか。当初、「2年で帰村」を信じていた村民たちに、精神的にも肉体的にも限界が近づいている。

選択肢を広げて

 松川第一仮設住宅の直売所で話を聞いたCさんは、小学校2年生の女の子の母親だ。  「事故から2年たっても、復興は進んでいません。放射線量を考えると、村に帰って生活できるのだろうか。まして、子どもをつれてはとても難しい」

  娘を自分と同じ小学校、中学校に通わせたいという「夢」があった。娘が通うはずだった飯樋小学校は、工夫を凝らした木造のしゃれた校舎。子どもたちにも人気の小学校だった。しかしその「夢」は、原発に吹き飛ばされてしまった。

  飯舘村は地震がおきても、地盤が強く山は崩れない、津波も来ないと信じていた。しかし放射能は山を超えてやってきて、村を襲った。「村の3つの小学校はどれもすぐ裏が山林になっていて、村外から来た人がうらやむ自然環境」だった。しかしいま山林は放射線量が低下せず、環境は逆転した。

  外で遊べない娘が少し太り気味なことが気になっているが、そもそもこの先の生活が描けない。  「先が見えないんです。戻れないなら戻れないように対処します。いつかは戻れる環境になるなら、それまで何らかの形で待つこともできるけど、見通しが全然わからない。村の方針は除染して帰村させる、の1本道です。村民にはもっと他の選択肢も必要だと思います」

 健康不安に怯えながら村に戻るか、愛する村を離れるか。そんな二者択一ではなく、選択肢を増やしてほしい。たとえば「村の周辺で生活して、村を行ったり来たり、本当に生活できるようになったら戻れるように」

  Cさんは一生戻らないと決心しているわけではない。村に戻れるようになるには長期の過程が必要だと考えている。いまの村のやり方では、逆に、「戻らない人が増え、村が存続することは難しくなるのではないか」と心配しているのだ。

  「これは人災ですよね。もっと、国や村のバックアップがあっていいと思います」

除染はあてにならない

 「原子力研究者はきらいだ。たまにきて、大丈夫といいながら、長泥には1、2時間しかいないですぐ帰ってしまった。学者も国も信用できない」

  長泥地区の鴫原良友区長はそういってパソコンを開いた。そこには、大事に保存している事故直後の除染の様子を写した写真が収めてある。新聞、テレビ関係者を引き連れて、除染の効力をアピールする田中俊一・現原子力規制委員会委員長の姿がある。東電第一原発事故直後、2011年5月のことだ。

立ち入り禁止がつづく「帰還困難区域」の長泥地区

  鴫原さんは当時の自分を後悔している。「除染をすればすぐにでも放射線量が下がって、長泥で暮らせると思ってしまった。いま考えると、(安全宣伝の)片棒をかつがされたようなものだ」と振り返る。

  長泥は飯舘村で最も放射能汚染が深刻な「帰還困難区域」に指定されている。年間放射線量は50ミリシーベルト以上。本当に帰村は可能なのか。

  「区長の立場でいっていいのか、いわないほうがいいのか」。躊躇しながら鴫原さんは「10年たっても、20年たってもだめだな」とつぶやいた。しかし、政府も村当局も、居住不能とは断定しない。 「5年過ぎて、さらにその後何年待たされるかわからない。国にはっきり決めてほしい。いつまで生殺し状態をつづけさせるのか」

  長泥の住民を悩ませているのは、放射線量だけではない。東電は住民の賠償請求にまともに応じようとはしない。住民(村民)の要求は、事故前の生活を取り戻したい。元のように生活ができるようにしてほしい。原発事故で生じた負担は加害者の東電が賠償するのが当たり前だという主張だ。しかし、東電の対応は住民要求からは程遠い。

  最近は長泥に立ち入る住民は次第に少なくなり、田畑はイノシシに荒らされ、サルが我が物顔に出没しているという。

長泥の展望広場。山の向こうで、東電福島第1原子力発電所の事故がおきた

  飯舘村の放射線量はどうなっているのか。3月9日の計測値を紹介する。

  長泥地区。立ち入り禁止のバリケードから20メートルほど進んだ展望広場の手前。舗装道路わきの地表近いところを測定した。毎時30マイクロシーベルトを超えて「OVER」の表示。いまだに、年間262ミリシーベルトというとてつもない高濃度汚染だ。

長泥の展望広場近く。毎時30マイクロシーベルト「OVER」

  村の中央に位置する庁舎の前に設置された放射線モニタリングポストは、毎時0.59マイクロシーベルトを表示している。この周囲は自衛隊が徹底除染をしたことで知られている。そして、ここの数値が飯舘村の放射線量として全国に発信されている。

  しかし、少し離れた植え込みを測ると、2.20マイクロシーベルト。こちらのほうが、この地域の実態を表している。年間19ミリシーベルトの高い放射線量だ。

  庁舎脇に、シートに覆われた汚染土が置かれていた。そこは毎時6.22マイクロシーベルト。年間54.49ミリシーベルトにもなる。

庁舎脇に放置されている汚染土から「帰還困難区域」並みの放射線

  深谷地区。道路と民家の間の側溝で、毎時30マイクロシーベルトを超える「OVER」を表示した。

 長泥やその他の地区で、農水省や環境省が除染を試みてきたが、効果は時間とともに薄れてしまう。村の7割を占める山林を除染しないと意味がない、しかしそれは不可能に近い、というのが村民の共通認識だ。

  「できるわけないさ、牛飼いなんて」。松川第1仮設住宅の直売所で遭遇した元・畜産農家が吐き捨てるようにいった。

風化させたくない

 「3・11」2周年。新聞、テレビは特集を組むなどして原発事故のその後を報じた。だからといって、福島の現状が、被災者の明日が真剣に考慮されているとはいいがたい。飯舘村民は、原発事故が風化し、福島が見捨てられていく不安を禁じえない。

  原発事故後、「愛する飯舘村を還せプロジェクト『負げねど飯舘!!』」(http://space.geocities.jp/iitate0311/)を立ち上げたメンバーの1人、渡辺富士男さんはいう。  「原発事故から2年経ってしまったけど、おれたちにとっては依然、かつての生活を取り戻す見通しも立たず、明日はどうやって生きようかと考えてしまうような大きな問題なのです。昨日までの生活が明日もできる県外の人たちとズレができてきているのかもしれません。いつか語り継がれなくなり やがては風化してしまうのではないか。寂しいね」

  福島県内のテレビなどで、経済関係のニュースが増え、放射能関係のニュースが少なくなった様に感じる。県外でも福島のことが新聞などに載ることが少なくなったと、県外の友人に知らされた。県外から飯舘村の現状を知りたいといって訪れる人たちも少なくなった・・・

  『負げねど飯舘!!』は、東電福島第一原発事故に対して「声をあげ、尊い命を守り、美しかった頃の飯舘村を取り戻すために」立ち上げられた。原発事故がもたらした状況に負けないという気持ちが「負げねど」と命名させた。「かわら版」の発行は6号になった。

  「風化させないためにも、『負げねど飯舘!!かわら版』を発行しつづけたい」。渡辺さんの持続する志だ。

政府の分断策

 「国の一方的な避難解除、帰還宣言、避難住宅打ち切り、賠償終了。このような不安に怯える住民は多いのではないでしょうか」

  最新の『負げねど飯舘!!かわら版⑥』で、比曽地区の菅野秀一区長が村民の不安を代弁している。不安にさせているのは加害者の政府・東電だ。

  昨年、政府によって飯舘村は20の行政区が3つの地域に分割・再編された。年間放射線量20ミリシーベルト未満の「避難指示解除準備区域」が4地区、20~50ミリシーベルト未満の「居住制限区域」が15地区、50ミリシーベルト以上の「帰還困難区域」に長泥地区。段階的に避難指示を解除するのが政府の方針だ。

放射能汚染がつづく飯舘村

  政府・東電が賠償を絡めて帰村を急がせるには理由がある。地域の再編も東電の賠償も「避難指示の解除」と連動している。村民が帰村すれば、「形」のうえで生活が元に戻ったように見え、「原発事故は落着した」と国民に思わせられる。避難指示を解除すれば、賠償や支援の必要性がなくなることになる。帰村しない人たちは「自主避難」扱いにされる恐れがある。政府・東電がはたすべき責任を小さくし、被害者の切捨てにつながることは間違いない。

 3つの地域への再編は、帰村の時期を分けただけではない。賠償額にも差をつけた。土地や建物の賠償額は「全額」支払うとされている帰還困難区域に対しても、新たに土地・建物を取得して生活をはじめるにはほど遠い賠償額だ。「避難指示解除準備区域」や「居住制限区域」は、帰村に要する年数などでさらに減額された賠償額にされている。

  村民の1人はこういった。「原発事故のせいで村が3つに分断され、賠償額にも差ができた。事故の前はみんな気持ちが通じ合い、トラブルなんてなかったのに、ねたみやひがみが生まれている」  政府の方針に対応して飯舘村は、早い場合は2014年秋から順次、帰村させる方針だ。だが、放射能汚染が、村の行政と村民に亀裂を生み始めている。

  政府・東電の避難指示解除・住民帰還政策は、放射能汚染による人体への影響を小さく見せることでなりたっている。民主党政権も安倍・自民党政権も「年間20ミリシーベルト以下は大丈夫だ」という立場。茂木経済産業大臣はこう説明した。「(国際基準の幅の中で)最も線量の低い年間20ミリシーベルトを避難指示の基準として採用している」。さらにこう付け加えた。福島の関係自治体からは「もう少し国際的な客観基準を示してもらわないとなかなか帰還が進まないという要望が強かった」

  住民を帰還させたい福島県の自治体当局だって、放射線量の基準を厳しくするなと要求している、といって開き直ったのだ。原発事故2周年の3月11日、衆議院予算委員会のことである。

  飯舘村の人たちは、原発事故以前の安全基準、年間1ミリシーベルト以下を望んでいる。政府・村当局の安全基準と村民の安全基準は明らかに違うのだ。村長にたいして「孫や子といっしょに、自分が先に暮らして見せろ」という村民は少なくない。

 一体となって「までいな村」づくりをすすめてきた飯舘村に生じてきた亀裂、分断。これも原発事故がもたらした最大の被害にちがいない。

福島県庁近くのモニタリングポスト。飯舘村の人たちが避難している福島市内は飯舘村よりはるかに放射線量は低いが、「外で遊んでいる子どもはほとんど見かけない」とタクシー運転手はいった

 「飯舘といわずにだまってるべ」。村民の間に、こんな思いが広がっている。「避難してカネをもらって」といった根拠のない非難。放射能汚染からくる結婚差別。3、4世代一緒にくらす生活への国民の無理解もある。東京電力福島第1原発事故が原因で生活を奪われた被害者が、身を縮こまらせて生きなければならないとしたら、加害者政府・東電の思う壺ではないだろうか。

    放射能汚染水漏れなど福島第1原発の事故も収束せず、福島県民16万人の避難がつづいているにもかかわらず、原発事故も、被害も、責任も、小さく扱うことこそ「風化」と「分断」の最大要因なのだ。東電の救済と原発容認政策の安倍政権がめざすところである。

 「カネで買えないもの、大事なものを根こそぎ奪われた。普通の生活をすることが『夢』になった」と村民はつぶやく。飯舘村は幾世代もかけて田地田畑を、地域共同体を、人のつながりを築き上げてきた。それらを失うことがどれほど口惜しいことか。賠償をはじめ被害者の今後の生活が加害者に仕切られていることがどれほど耐え難いことか。政府・東電には思案の外だ。健康・命の問題も生活の再建も、加害者政府・東電が定めたゴールには存在しない。

  古今東西、分断(分割)統治は支配する側の常套手段だ。これについて村民の1人がいった。「闘いの相手は村長ではない。国と東電だ」。

いつか戻りたい

 この春、相馬農業高校飯舘校を卒業し、福島県外に就職した女性がいる。彼女も飯舘村を愛してやまない。

  「避難してから、かえって飯舘に生まれてよかったと思うようになりました。住みやすい環境、村の人たちの優しさ。言葉で表せないほど、いいところです。大変な思いをしただけ、避難したことが自分を成長させてくれたように思います」

  「いま村に戻りたいと考えている人は少ないと思います。でも、いつになるかわからないけれど、元の飯舘村に戻ってほしい。いつか自分も戻れるようになると信じています」

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