福島県飯舘村はいまも全村避難がつづいている。2011年3月11日、東京電力福島第1原発事故が発生し、大量の高濃度放射能が飯舘村を襲った。6000人余の村人は故郷を追われ、生業、共同体を奪われた。そんな飯舘村で、コーヒーに夢を託した1組の夫婦が、自分たちの歩みを本にした。
市澤秀耕・市澤美由紀著『山の珈琲屋 飯舘 椏久里の記録』(言叢社、1600円+税)である。
巨大地震の直後に、まさか放射能が降ってくるとは思いもしなかった著者や村人たちが、放射能と政府の無為無策に翻弄された日々が鮮明に記録されている。
双葉郡や南相馬市から安全だと思って避難してきた人々が村にあふれ、「椏久里」も無料休憩所となった。その後、危ないといううわさに一時自主的に避難したが、すぐ村にもどった。「国が避難指示をださないから」大丈夫だろうという判断だった。なにしろ、全村避難の指示が出たのは事故発生から1カ月も後のことだったのだ。
なぜ放射能の情報も、避難指示もなかったのか。無用の被ばくを強いられた無念さと怒りは、すべての村民の思いでもあるだろう。「国は一部の国民の命や健康よりも、体制を維持することを優先する」と、著者はいう。国とは、政府とは何か。今回の原発事故を通しての最も根本的な問題を突きつけている。
一番大切なものは「焙煎機です」と避難時の雑誌の取材に、妻がこたえたエピソードがある。この本は、村外から嫁に来たちょっとやんちゃでひたむきな妻と、農家の跡取り息子で、村役場づとめも経験した冷静な夫の「珈琲屋」の記録である。
東京の喫茶学校に学び、海外のコーヒー栽培を視察するなど、素人がひたすら努力して小さな村に野菜と自家焙煎コーヒーの店開業にこぎつけた。「よいコーヒーをよい空間で」がモットーだ。「あがってがっせー」「お茶飲んでがっせー」といって、見知らぬ相手ももてなす村の心は、「椏久里」の「おもてなしの心」に生きている。「椏久里」の窓からは、畑、水田、阿武隈山脈、そして青空がみえた。
19年間営んだ飯舘村から避難して福島市で店を再開した。開店も再開も、人々に感謝し地域に「生かされている」と受け止めている。
いつの日にか飯舘村の「椏久里」で、コーヒーを飲んでみたい。そんな思いに駆られた。