教え子の小学校3年の男子生徒がくれたひまわりの意味を、担任の女性教師は50年以上も経た今日までずっと問い続けてきたようだ。ひまわりを置いて教室を出た直後に、その男子生徒は米軍ジェット機に命を奪われた。
「先生にあげるよ」といった男子生徒の最後の言葉が、「未だに私の耳に残っている」と女性教師は語っている。(『沖縄の空の下で①証言・あゝこの悲惨 石川・宮森ジェット機墜落事故』命と平和の語り部石川・宮森630会編)
1959年6月30日にその事故は起きた。嘉手納基地から飛び立った米軍のジェット戦闘機は、石川市(現うるま市)の民家をなぎ倒し、宮森小学校に激突した。一瞬にして小学生11人を含む17人の死者、210人の重軽傷者をだす大惨事となった。
医師、看護婦らと事故現場に駆けつけた琉球警察本部の技官はこう証言している。「こんな光景は戦争中も見たことがない」「黒こげになっていた児童の中には男の子か、女の子かの判別もつかないほどの炭化状態で・・・」「遺族の号泣の姿は、今も私の脳裏にありありと焼き付いています」(『沖縄の空の下で』)
戦後14年、なお米軍統治下のことである。 当時、事故原因は「エンジン故障による不可抗力」とされていた。しかし、米軍機が整備不良のままテスト飛行を強行したこと、つまり人災だったことが真相だ。米国でなら、このような無謀な飛行は許されないし、することはなかっただろう。隠された真相を明らかにしたのはもちろん、米軍ではない。琉球朝日放送が米軍資料を入手して告発した。1999年6月、事故から40年も経っていた。
町田市民ホールで、この事件を題材にした映画『ひまわり~沖縄は忘れない あの日の空を~』を見た。運よく助かった男子生徒も60代半ば、男子大学生の孫がいる。沖縄でも時とともに事件は風化していく。孫はゼミ活動の一環として仲間とともに、2004年の沖縄国際大学へリ墜落事件と宮森ジェット機墜落事件を取材して歩く。
5月15日は沖縄が日本に復帰して41年になる。ジェット機墜落から54年、戦後68年近い年月を経ても、米軍と米軍基地の存在が、沖縄の人々の生命と人権を脅かしている現実はほとんど変わらない。孫たちの活動を通してそんな沖縄の現実が告発される。沖縄の悲しみと怒りが静かに伝わってくる。
映画のラストシーンはひまわりで埋め尽くされた。米軍ジェット機に殺された男の子が大好きだったひまわり。戦後沖縄の苦難の闘いの歴史、先人たちの思いが若者たちに引き継がれていくことを象徴しているようだった。